西鉄バス・筑豊

20051219.jpg 山の中に突然現れるバス停ってのは衝撃的で、付近に民家なんてちっとも見当たらない場合のバス停ってのはさらに最高だ。そういうバス停の常として、人が 乗らないからバス停として使われる節がない、さればどうなるかといえばもう荒れ放題になるというのが世の常ってもんでさあね。

 逆に山の中にあるバス停でも、きちんと手入れされているのもある。地形的に国道から離れたところに集落があって、利用客が多いんだなってバス停はきちんと掃除が行き届いている、きれいな待合室があったりするもんですね。

 で、このバス停。真正面には産業振興センター的な公共施設らしいでっかい謎施設(バス停表示板の赤文字はどうもそれの名前らしい)があり、横には 真新しい道路。でも、おそらくバス停には全く関係することはなかろう。何せ建物はその施設しかないし、おおよそこの施設を使う人々はその真新しい道路を 使って自家用車で来るだろう。カタカナ四文字のこのバス停名は九州地方でよく見られるカタカナ小字名。同じ様な小字名をどこかで見たことがあるが忘れた。 おそらく古語の一種じゃないかな。

 このバス停がそんな、地元の人もおそらく登記簿辺りでしかお目にかからなくなったような小字名になったのには訳がある。元の名前は「火薬工場」。 古い地図ではこの名前で表記されているのだ。火薬といえば、発破。そういわれてみれば田川のほうに廃止された路線にも「弾薬庫」というバス停があったらし い。そこで作られた火薬はおそらくそういった作業に使われていたのだろう。おそらく炭鉱の閉山によりだろう、工場を失い、バス停の名前を失い、存在意義を 失い…それでもどっこいバス停は生きている。草にうずもれながらもね。

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西鉄バス・筑豊

Vfsh0137-1.jpg 昭和59年西鉄バス時刻表という分厚い冊子を(おそらく手打ちで)PDFにしたためた偉業を成し遂げた方がいらっしゃって、勇んで閲覧してこのバス停の本数を見て絶句。

 このバス停は豊前川崎という、国鉄(敢えてそう記す)のジャンクションの駅前広場から商店街を通り抜け、その店並みが途切れるちょうど真上に大き な折り返し場とともに存在していました。大きな県道を通って、田川(その付近の中核都市)からやってきたこの町の他の方面に行くバスには駅に入ること自体 がわざわざ枝線の袋小路に入るようなもの。しかし時刻表を見れば、まずバスはこのバス停に敢えて寄り、そこからその袋小路を戻ってさらにこの町の枝端のあ ちこちに向かう。そのことと、その沿線の駅前商店街の栄華のあとは、この場所が生活上の拠点であったことを思い起こさせます。

 ここで日々の食事の準備、生活の用足しに足を向け、出会う、別れる、旅立つ…さまざまな人の流れの集まりであったこの場所にはバスはもうやってき ませんし、駅前商店街に来るはずの人々は近くの県道沿いにある大きな駐車場のあるスーパーに自家用車ですいっと行ってしまうのでした。

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西鉄バス・筑豊

Vfsh0134.jpg 今日付けで、筑豊地方のいくつかのバス路線が廃止になることになりました。

 筑豊にはいまだにバス停に「坑」の字が入ったものが残っていて、その多くが終点だったり重要な経由地であったりするところが時代を表している気がするのですが、そのうちのひとつで一日1本のみの迂回線の経由地、「三井四坑」がその廃止路線の中に入っていました。

 道路は拡張工事の真っ最中、看板すら落ちた商店も、バス停も飲み込んで、全く違う町並みができるのでしょう、そこには。何もかもを忘れたようでい て、生き証人のように立っていたこのバス停も今日で廃止。もしここに、新たなバス停が別の業者や町によって立てられたとしたら、おそらく「坑」の文字がつくことはないでしょう。

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西鉄バス・筑豊

sinoka02.JPG 母方の血の話ばかりしていて、親父の血の話を忘れるときがある。オヤジは間違いなく筑豊堅気の人間で短気で手が早く、良くも悪くも義理に厚くて人情に弱い世渡り下手な人。「青春の門」を読んでも「え?こういう人物像って普通じゃないの?」と思う辺りまさに親子なんだが(本当)、そんな親父の母方のふるさと、つまり祖母の育った町にある、炭鉱跡の町であります。
いろんな炭鉱町を回って思ったことがある。ひとつの共通点なんだが、子供たちが底抜けに明るいのだ。そして、写真を撮ろうとしている自分に話しかける年配 の方々、その声色も底抜けに明るい。福岡なんてクソ田舎だ!とか大都会を見上げて叫んでる自分が恥ずかしいくらい、今住んでる町なんか擦れすぎてるんだな あ・・・。
都会で一生を終えたその祖母が自分にくれた最後の言葉は「強く生きてくださいね」だった。底抜けに明るい、しかし皆が貧しい町からこの街で生き抜いた祖母のその言葉は、なんと重いことか。
…いや、重くはないのかもしれない。そのばーさまの血を受け継いでいるんだから、きっと。sinoka01.JPG

西鉄バス・筑豊

zeni03.JPG 場所は、嘉穂郡稲築町。
のっけから白状、読み方が全くわからん。
山野の炭鉱は、閉山直前に300人近い犠牲者を出した事故が起きたという。ひっそりと静まり返ったような冷たく重たい空気と、もう来ることはないあわただしさに備える何かのざわめきが聞こえてくるこのバス停。

実はここの次の次のバス停は、旧国鉄漆生線の鴨生駅跡。そこに行くと、駅はないにもかかわらず駅前商店街が広がるというあの寂しい光景が待っています。駅はあっても寂しい光景が広がるところもあるんだけどね・・・。

写真を撮り終わってドンの字(※後の嫁)が退屈そうにしながら、「終わった?」と訊いてきた。
何にもないとこに興味はない、というのが彼女らしくてまたよし。

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西鉄バス・筑豊

場所は、鞍手郡小竹町。
残念ながらバス停は廃止後に転換された町内循環バスなので、いわば鉄道の廃駅のような趣と思っていただけたらと。
小竹町は昭和45年に、付近の炭坑が全て閉山。宮田町にある炭坑だけが最後まで残っていました。

ここを走っていたバスは、そういう事情からか隣にある宮田町への、おそらくここに住んでいた幸運にも職にありつけることになった炭坑マン達の足として運行 されていたと思われます。このあたりは国鉄バス・西鉄バスの路線が入り組んでおり、国鉄バスがわざわざ迂回して地図上に、投げ輪のような軌道を描いてまで ここに足を運んでいた理由はおそらくそれなのでしょう。

西鉄バス・筑豊


筑豊地方は、もともとたくさんの炭鉱があった場所です。
昭和51年(1976年)8月の貝島炭鉱(鞍手郡宮田町)の廃坑まで、そこには多くの雇用があったわけで、そこにはそれがゆえの多くの人の営みがあった場所なのです。
筑豊の石炭は主に燃料炭としての品質しか有せず、主な燃料を石炭から石油へと転換させたエネルギー革命以降は需要の大幅な減少により閉山に追い込まれ。
同時に町も消えていき、社宅のあったすすきの原の真ん中にバス停だけが立っているのがこの写真の場所です。新町、つまり新しい町は、どのくらいの間そこに生まれ、そしてすすきの原へと還っていったのでしょうか。
 そして今自分が住んでいる町の未来もこうなのだろうか。はたまた、この国が・・・いや、この世界が。