※ちょっとブレイク

 7月2~3日の豪雨災害のニュースに心を痛めています。
 被害に遭われました現地の方々に心より御見舞申し上げます。

 フィールドワークに何度も出向いた場所で、通りがかったお土産店。
 いつか自転車を借りて渡ってみたかった、耶馬渓鉄道の鉄橋。
 いくつか目を疑うような箇所が被害に遭われておりました。

 避難地域とされていた地名にも、いくつか見覚えがあるものがあり。
 当ブログの撮影の際には、地元の方の協力があって撮られた物がいくつも存在します。
 皆様のご無事をお祈り申し上げます。

日田バス

今年も女王は不機嫌だった。
早すぎたのだ。

彼女の一番の見ごろはいつなのだろう。おそらく今週末か。
すまない、その日当たりはバンドが忙しいんだ。
だけれど、うまく都合がつく人が写真を撮ってくれるかもしれない。
そして、ぼくなんかよりもっと写真をとるのが上手い人がいるだろう。

道路工事の看板が無粋に立っていた。拡幅工事が行われるのかもしれない。
彼女が消える前に、この山の中にひっそりと佇む美しいお嬢様の姿をとどめておきたいと思う。

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日田バス

女王さまはご機嫌斜めだった。
ちょっと時間を許した隙に、桜は散っていた。

彼女のシャッターチャンスは年に一度。
彼女はいずれ、道路の拡幅で取り壊される運命にあったりする。
道路の拡幅工事はいつはじまるか、それはわからない。

だけれど遅く来たごほうびに、空は青く、桜の色は映えていた。

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※ちょっとブレイク

そろそろ資源が底を突いたところで、あらためて読み返してみた。
「自分がなぜ日田バスのこれらのバス停に魅せられたのか?どこが魅力的で、こんなブログまで立ち上げたのか?」
「ひょっとしたら地元の人々は、都会人が嘲笑っているように受け取っていないか?」

自分の中でこの二つをちゃんと解決しておかないといけないな、と思う。
面白おかしく書いているだけ、と受け取られないようには書いているつもりだが、写真のインパクトともあいまってなかなかそうは受け取られていないんじゃないか。
先日ライブイベントで、スライドショーで上映して解説をするということをやったとき、つくづく感じさせられた。写真のインパクトでまず観衆が沸くんだもの。

大分のバス停は、明らかに前近代的である。

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福岡(西鉄バス)は標柱を統一しておらず、バス停には多様性が認められる。糟屋郡、旧宗像郡周辺にはブロック製の待合室が点在して残っている。
待合室の併設は、昭和30年代のバス路線開設時の、おそらく暗黙のデフォルト様式だったと思われる。
昭和30年代開設(「西鉄80年史」より)、昭和60年代に廃止になった宗像郡の玄海町役場付近の路線沿線に、ブロック製待合室の廃止址が点在していた。

堅牢でない木造の待合室は90年代まで現存していた箇所もあったが、ほとんどが取り壊されている。基本的には標柱一本化の方向であるのだろう。2003年の福岡西方沖地震の影響もある。
西鉄バスの場合はほとんどが待合室+標柱であることが多かったが、那珂川町の渕の上には長らく現存する最後の待合室+標識釣下げバス停があった。小学生のころこの付近を通った記憶だと、もういくつか見かけた記憶がある。

大分バスの有名な「ととろ」バス停について面白い記述。
http://homepage3.nifty.com/gochan/totoro/index.htm
開通したのは昭和24年で、「バス停の新設条件に、待合室を作るという項目」があったというのは興味深い。
バス停に、駅に近い機能を要求していた証左とも思える。現に、大分交通のバス停のいくつかで、駅名板のようなものを携えたバス停が現存している。
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公共交通史としてのバスの歴史、変遷を考えるに辺り。
大分のこの前近代的バス停群は、非常に重要なミッシングリング的なものになっているのではないかと考えられる。地方の交通インフラとして必要不可欠だった時代のバスのありかたが、そこに息づいているからだ。
(気が向いたときに続く)

島鉄バス

80ae9e57.JPG ちょっと長崎に行ってきました。
せっかくなので地元の狭隘路線にチャレンジです。
向かったのは島原市。

島原市は、かつて1991年、雲仙普賢岳の噴火災害に見舞われました。
このとき、バスの路線がいくつか寸断、廃止されています。
災害発生時、長期化する火山活動の中。山を隔てた小浜側の温泉地に、大学の卒業旅行で訪れた際。島原鉄道バス全線時刻表が無料で配布されておりました。
経路の一部が立ち入り禁止区域に指定されて、路線が寸断されたのが、島原市の山裾伝いを走る県道58号線を走る路線。その災害復旧までの代替路線として、礫石原線を運行している旨が、時刻表には明記されていました。
元の、58号線にあったこのバス停まで、全く違う経路でアプローチする路線です。一致するバス停はたった2つ。バス停の数も、1.5倍近く増えた格好になり、大回りする感は否めません。

それから20年近く。元の路線への復旧は無く。
経路は複雑を極め、農道・里道を縫うように走破していきます。
意外なことに、起点からの通しの客は全く現れず、中途の農村部からの途中乗車が多かった。もう、すっかり根付いてしまっているんですね。変わってしまった人の流れ、か。

とか考えていたんですが、結局終点の礫石原まで乗った人は我々以外皆無。
みんな、付け換わった路線上のお客さんでした。

到着した終点の周囲は農地が広がり、おそらく開墾時に掘り出されたのであろう火山岩が石垣に使われておりました。石くれが忌々しいほど転がる、荒涼とした土地だったのでしょうか。曇り空の向こうにはおそらく普賢岳。

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甘木観光

ab8f68f8.JPG 例のHDDの写真整理してたら、発見しました。

秋月というのは福岡でも有数の観光スポットです。
秋月藩という小藩の城址と城下町があり、春、秋と訪れると美しい場所であります。
今年は足がないのと貧乏して行けなかったのですが、毎年できうる限り訪れている場所です。

いやー、写真整理してて気づくというのはいかがなものか?
これは確かに壁のバス停じゃないですか。
広義も狭義もなく壁のバス停じゃないですか。

ひょっとしたら福岡市内とかにも、こういう見落としってあるんじゃないのか、と考えるときりがなくなってきたような・・・。写真は何も考えなしに撮っているのでめっちゃいい加減です。うっすら覚えてるけど、壁って意識なかった。あ、バス停あるや、撮っておこうとしか思っていなかったでゲスよ、うん。

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昭和バス

VFSH0111.JPG パソコンがぶっ壊れました。

HDDはまったくの無事だった上、予備のPCを用意していたので被害はほとんどなく・・・といいたいところなのですが。壊れたPCからHDDを取り出し通電してみようということで、「HDDをUSBで接続する便利なヤーツ」(※アバウト命名)を道具箱から取り出して実験です。

道具箱からHDDが出土しました。・・・あ、そういや昔、多くのデータを閉じ込めたまま通電しなくなったやつだな・・・これ、通電してみるか(軽い気持ちで)。

 ゲエ!動いた!!

急いでサルベージしたら、そう多くはないのですがいくつかの写真が出てきました。
今日更新した2本の文章は、サルベージして画像が発見された、以前書いた文章たち。
ダムの底に沈んだはずのデータが、急にここに来て大復活。驚きです。

そしてこの写真なんですが、嘉瀬川ダムの底に沈んだバス停の写真。
上を通るのが現在の県道の取り付け道路ですね。
集落はもう、山の上でした。

ところでこの写真の右上に変なものが写ってますが、これ昔携帯水没させちゃってねえ。
カメラのレンズ裏に水滴が入ってるんですな。
この2ヵ月後にお亡くなりになりましたとさ。

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呉市営バス

VFSH0010.JPG人が住むところまで、道は続いてるもんだ。

わけあって広島まで行ったときの写真。いつも遠いところに行くと、そういう最果てまで行き着きたくなるのが性分だったりするわけよ。この道、というかこのバス路線がどこまで続いているかを確かめたくなって。呉からちょうど引き返す予定だった自分としては、呉で行ける最果ての場所を探したかった、そしたらこの倉橋島の突端の終点なんかどうだ、って感じで突き進んださ。

いつも旅に出るときは頭の中の地図以外あんまり使わない。ゆえに想定の4倍もの距離を延々と原付で走る羽目になったのだが、あんまりにも穏やかな瀬戸内海の景色に圧倒されて、別にどうでもよくなって来て。海、港、時々峠道、と続き走ること1時間。

着いた先はやっぱし穏やかな海。江戸時代、諸国大名が風待ち港にしていたという離島の宿の村に、陸続きでバスが一日9本やってくる時代なんて、誰が想像する?

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堀川バス

VFSH0094.JPG地図を購入して、これはというバス路線を探すのが好きだ。細い路地を明らかにくねるように走っているものを見かけて、その町へと勇んで出かける。そして、行った先ではすでに廃止。もしくは福祉バスに転換されて、真新しい標柱が立っていて風情はなし・・・

茫然自失。

ってな感じのことがあるとわかっていて、柳川に行ってきた。堀川バスという時間の止まったような路線が多い会社の路線で、つい2~3年前まで狭い路地を抜けてこの終点まで大型バスが走っていた。

で、そのいくつかの路線跡を巡りながら考えた。意外な話、バス路線の跡というのは痕跡があるものだという話。何せこの辺の道路はあまり拡幅がされていないのだ。それもそのはずでこの辺は水路が発達していて、古い家並みが漁村と同じ家の作り。通りまで家がみっちり建ってしまっているのだ。

なもので興味深いものがたくさん発見された。道路に付け足された、バスの離合ポイント。そしてそこにホーロー看板がいっぱいくっついた壁の商店。注意深く見ないとわからないが、見れば「ああ、なるほど」と思うものばかりです。

写真はそういう商店の一つ。バス停は、もうありません。

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大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ


先日ちょんびんさん他同行の志4人で行った大分バス停巡りツアー道中の話。

最初のうちは、日田バスの待合室バス停なんかにも「お~」と夢にときめいたり、明日にきらめいたり出来たわけですよ。
ところが大分の山奥というのは本当に待合室バス停のひさしにプレート、がむしろスタンダードだってことに気付くわけ。だんだんとそういうバス停に見向きもしなくなってくるわけです。

そんな感じでこのバス停も「極上の待合室バス停」なんだけれども、記事にするのを見落としてた感じのバス停。壁・軒先、1.5往復の支線分岐・・・と周囲にスターがありすぎるのがいかんのだ。

待合室のこの「物持ちのよさ」に感動する感じか。
同じくらい古いものが、もう半壊同然なものは何個もお見受けしている分、このバス停にはちょっとした感動を覚える。標識がそもそもえらく古いタイプで、この会社は子会社化の際に古いバス停の上にべたべたシールを貼ったりしちゃってる場合が多いんだけれども、このバス停には一切それがなぜかなく、「大分交通」のまま。おかげで保存状態がよく見える。

探訪したとき、次のバス停あたりでバスに遭遇。
バスはこの道路にしては結構大きいのがやって来た。