大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ


大分県の中核市同士、中津と日田を結ぶ国道。その日田側から一番最初に控える峠道の旧道。
国道というやつは、世間のニーズに合わせて交通量もより大きなものを求められ、それに見合った道路が設計されて新しい道につけ変わっていくのが常。
山の峠道なんかになると、わざわざ橋をかけやすい上流まで昇っていくような細い道や、できるだけ勾配をなくそうと何度も九十九折で山を切り開くように伸び た道が。下流のほうにずどんと高架橋とトンネルをセットにした道につけ変わったりする。それは先人の努力が無駄になったのではなくって、われわれの技術の 進歩をむしろたたえるべきではある。

できるだけ自然のあるがままに沿ってできたような道のことが多い旧道と、そうやっていかにも人が自然を征服したかのような工法の新道にはたいて い、互いに行き来できるようになってないことが多い。知り合いにそういう新道の、特に高速道路の施設点検をする業者さんの話を聞いたことがあるが、まず駐 車位置とアプローチに苦労するのだそうだ。

それゆえバスは、日に一往復だけ、旧道の集落のおそらく学校の生徒のためにこの寂れた道を通っている。この待合室の前をかつては、峠越えのバスが日に何便も通り過ぎたのだろう。そしてその都度、幾ばかりかの人でにぎわったのかもしれない。
旧道は大変な狭い道で離合もままならなかったが、向こうから来る車は皆無だった。峠越えの道としての使命は終わり、静かな集落を結ぶ里道として伸びるこの 道。しかし並ぶバス停は、立派な待合室を携えていて、かつてのこの道が持っていた使命を忘れまいとしているようにも見えた。

旧道部分を過ぎ、新道に戻ると。新道沿いには土産物屋、ほ場整備が済んでその辺りに移り住んだ人。道が、人の住む場所を変えていく。いずれこの道もどこかにつけ変わって、旧道になるんだろうかね。

産交バス

P1000125_R.jpg かつて日本には国鉄というのがあってだな。国が鉄道を運営していて、いたるところに鉄道網を張り巡らせていた時代があった。そしてその鉄道網は、いわゆる過疎地のほうにまでも延び。あるいは時代が変わり、人の住まなくなったような場所に空気だけを運ぶ鉄道線が生まれ。

 大分の山奥から、熊本の方向を目指したまま盲腸線になっていた宮原線が廃止になったのは昭和59年12月1日。かなり早い時期の廃止だ。鉄道とい う重厚長大な施設を維持するコストと、そのコストを捻出するために見込まなくてはいけない乗客数には全く見合っていない、沿線の人口密度。いかに温泉地 で、観光地であったとはいえ、それは仕方が無かったことなのだろう。

 ちょうど先日、五馬線を 再訪して写真を撮り尽し、杖立のほうから小国を通って九重のほうに抜けようと思った通りがかった県道。不意に、その巨大な橋が現れた。周辺は谷沿いの農 村、草生した鉄橋の真下にあるバス停は、それに見合うようにこじんまりとしていて、その橋だけが異様に大きな存在感を醸し出していた。
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