※ちょっとブレイク

そろそろ資源が底を突いたところで、あらためて読み返してみた。
「自分がなぜ日田バスのこれらのバス停に魅せられたのか?どこが魅力的で、こんなブログまで立ち上げたのか?」
「ひょっとしたら地元の人々は、都会人が嘲笑っているように受け取っていないか?」

自分の中でこの二つをちゃんと解決しておかないといけないな、と思う。
面白おかしく書いているだけ、と受け取られないようには書いているつもりだが、写真のインパクトともあいまってなかなかそうは受け取られていないんじゃないか。
先日ライブイベントで、スライドショーで上映して解説をするということをやったとき、つくづく感じさせられた。写真のインパクトでまず観衆が沸くんだもの。

大分のバス停は、明らかに前近代的である。

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福岡(西鉄バス)は標柱を統一しておらず、バス停には多様性が認められる。糟屋郡、旧宗像郡周辺にはブロック製の待合室が点在して残っている。
待合室の併設は、昭和30年代のバス路線開設時の、おそらく暗黙のデフォルト様式だったと思われる。
昭和30年代開設(「西鉄80年史」より)、昭和60年代に廃止になった宗像郡の玄海町役場付近の路線沿線に、ブロック製待合室の廃止址が点在していた。

堅牢でない木造の待合室は90年代まで現存していた箇所もあったが、ほとんどが取り壊されている。基本的には標柱一本化の方向であるのだろう。2003年の福岡西方沖地震の影響もある。
西鉄バスの場合はほとんどが待合室+標柱であることが多かったが、那珂川町の渕の上には長らく現存する最後の待合室+標識釣下げバス停があった。小学生のころこの付近を通った記憶だと、もういくつか見かけた記憶がある。

大分バスの有名な「ととろ」バス停について面白い記述。
http://homepage3.nifty.com/gochan/totoro/index.htm
開通したのは昭和24年で、「バス停の新設条件に、待合室を作るという項目」があったというのは興味深い。
バス停に、駅に近い機能を要求していた証左とも思える。現に、大分交通のバス停のいくつかで、駅名板のようなものを携えたバス停が現存している。
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公共交通史としてのバスの歴史、変遷を考えるに辺り。
大分のこの前近代的バス停群は、非常に重要なミッシングリング的なものになっているのではないかと考えられる。地方の交通インフラとして必要不可欠だった時代のバスのありかたが、そこに息づいているからだ。
(気が向いたときに続く)