JR九州バス,バスターミナル,古バス停,終点

「バス停は駅であった」という考察文を書いたら、これを取り上げざるを得まい。

巨大建造物です。駅です。
JR=国鉄バスの、本当に駅扱いであったバス停。
バスターミナルではあります。だけど、これは例えば駅前や中規模市の中心部に設置するようなものではなく、鉄道空白地の地域までバス路線が伸び、そこに駅を置いたという例。
「駅」はかつて「運輸」において必要なものでした。遠くに大きい荷物を送る宅配、あれ、宅配業が発達する前は「駅止め輸送」が中心であったようです。

大分県の山中もそうですが、中国地方の山中など、鉄道空白帯がある箇所には国鉄バスの駅が結構設置されています。長野には国鉄バスの貨物駅も存在したほど。

これは、その名残。

内装も立派な駅です。

この近くからは炭鉱が見つかりました。
貝島炭鉱。筑豊炭田最後に生き残った炭鉱。大規模な露天鉱でした。
今、その歴史を塗りつぶすようにメガソーラーの建設が進んでいます。

(この土地全部を埋め尽くす予定のようです)
後に国鉄、ここから1キロもないようなところまで鉄道線を延ばし、本物の鉄道駅を作ってしまいます。
それは後に「筑前宮田」のバス停として紹介しましょう。駅跡がある程度残っていてバス停になってます。

この街には「宮田町駅」と「筑前宮田駅」の二つの国鉄駅があったということになります。
しかし実際町並みを歩いてみると実際、この「宮田町駅」のほうに商店街が発達しています。

この乗用車というかタクシー、実はバス扱い。

ボットン便所も気合が入ってます。落書きだらけでした。

今はただの「バス停」です。
ここがこんなにも大きいのは、かつて「国鉄自動車駅」であっただけで…。

JR九州バス,軒下吊り下げ


バス停とは、人生である -ニーチェ-

と「バス停トーク」のオープニングで使っているバス停です。

苦悩した顔で立ってみるとまさにそう思えるではありませんか。(※バンドマンなので顔出しは厭わない)

このバス停は筑前山崎という終点へ向かう支線のバス停。
筑前山崎線は、JR、ないし国鉄バスと西鉄バスが昭和30~40年代路線網を引くにあたり、大変しのぎを削った場所であります。直方から赤間のほうに抜ける峠の路線を引くために、蜘蛛の糸のように絡み合った路線網が敷かれていた場所です。長閑な農村地帯なんですが、JR晩年期も桶田経由、有木経由の2系統存在していたし、西鉄はJRと重ならないよう必死に遠回りをしてこの周辺に路線を延ばしたり、時には和解をしたのか競合路線を引いたり。

西鉄もJRもなーんにも居なくなってしまって、今は宮若市乗合バスとして運行されています。

この黄色のがJR時代のバス停名板。

裏から見てもサビサビです。

おそらく譲り受けたのか。新しく立てた感じですが、もうレトロ感ある。

病院の名前は「有吉病院」でした。

カミさんに撮ってもらいました。

このバス停を紹介してくださったちょんびんさん、ありがとうございました。

大分交通・国東観光,ポール型,終点,鉄道跡

以前、まあここなら外さないだろうと勇んで国東半島に行ったことがありまして、そりゃもうワクワクして軽を走らせたのですがものの見事にごらんのごとく
 「立っている」(※このブログ独自の表現)
 案件ばかりで肩透かしにあいました。どの支線も結構最近に施設を刷新した感じもして、ああー、こりゃねえな、ということで国東半島の北半分で調査は終わらせて帰ったことがあります。

しかし国東半島というのは実に寺社やら石仏の多い場所でありまして、表題に出している路線の終点「文殊線」、まさに極めつけの「成仏線」など、珍名系のバス停が大変多い。
以前にも一度紹介した「下成仏」。これは地獄の門へのバス停!?

終点は「上成仏」。
天国は意外と、普通の集落でした。

ほかに本当に夫婦岩の下に置かれた「夫婦岩」とか

由来が気になる「豆腐坂」。

国東観光のバス車庫は、大分交通国東線の終点国東駅の跡を使っており、バス路線はその名残で国道を通らず海岸線側港町の細道を使うローカル線が多々あります。
これは「小原」バス停のところで見つけたもの。バス停は別に立ってました。
中に朽ち果てたベンチがあり、待合室の跡っぽい雰囲気だけはする何か。

この建物はなんだろう・・・?
最初、バス停のあとと思って近寄ったのですが、ひょっとすると鉄道のほうの遺構なのかもしれない…。

長浜。めっちゃ海に近すぎる。

大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ

普通の待合室+ぶら下がりバス停、と言ったら失礼かもしれないけど、 大分県ではもはや当然のごとく普通に2~3バス停ごとに残ってるエリアがあるレベルなので、まあ普通のバス停。

確かに普通・・・

ここは上下ともにあります。

この道路自体が結構整備された立派な県道であり、このバス路線が華々しきトランスポーターの中心として機能していた証。今でも急行バスが走っているほど。中津~森線。もちろん、本数は往年にははるか及ばない一日数便ですが。

うーん。

隣の「持田」はなんと新調されてます。

こちらも上下線があり。
さりげなく、その近くの商店の脇にこんなものが置かれていました。大分交通の昔のスタイル看板。

西鉄バス福岡市内線46番

最終回。
おそらく最初はこういう路線として企図されたものであると想定した路線図。
警弥郷の名士の方編纂「警弥郷史」(南区図書館に所蔵)という郷土資料にある「一度開通したものの離合が困難ゆえいったん廃止された」という記述、春日市史などに残る道路資料を基に想像で作成しています。
井尻口~博多駅間は昭和28年のものをそのまま使っています。おそらく齟齬はあるはずです。

昔の福岡の商業圏は、島国本土日本と大陸日本、つまり朝鮮(そして満州国)をつなぐ国鉄航路の玄関口の一つでした。旧博多駅の地図を見ると、鹿児島本線も出来るだけ港方向に寄せた線形にしているのがみてとれます。
その商業圏から旧筑紫郡曰佐村を縦断して、那珂川町に向かうのが理想の46番。
もしも新幹線基地がここまでこなかったら。
これは実は可能性がありました。山陽新幹線の終点は小倉にするべきか博多にするべきか、実際に選定に時間がかかっています。1963年に一足早く北九州市が発足、政令指定都市化はそれだけ当時福岡の街にインパクトを与えていたのでしょう。
特撮番組「ウルトラQ」に登場する地底超特急も、北九州が終点になっていました。

博多駅の移転のIFに関しては省略します。(6)の節、もう書きたくない。するという前提にします。九州新幹線を想定した線形にしてはいるので、結局のところ九州新幹線はこの付近を走っているのでしょうが、基地は出来なかったでしょう。基地引込み線が出来ず、県道575線が完成した場合、1982年ごろでの理想の46番はこうなっていたでしょう。

しかしこれは、距離にして2~30メートルほどの区間のみ開通によって実現しませんでした。

そうです、例の箇所です。 今でも、46番は例の狭隘路に入っていきます。

こんな狭いとこ入っていくんです(驚きで指も映る)。
追いかけて歩いていってみると・・・

こんなとこ左折して

ここを右折して信号機のところからようやく対面2車線になるという・・・ん?
反対車線に下り線のバス発見!!
しばらくその場で見ていると・・・

どっち曲がってんだよ!!

どこ挟まってるんだよ!!
この一角、地元民には「入り方と抜け方がわからない死の一方通行地帯」として恐れられ、抜け道に使おうにもたまにめちゃ長い踏切渋滞が起きることで知られています。バスの挙動を覚えれば理解できるけど、初見殺しもいいところです。

この路線は本当に思い出が深いのです。
自分の実家はこの「架空の46番」が出来ていたら確実に恩恵を受けていた場所でした。
自分自身は新幹線通りを通る49番のバスを使っていました。

この地図の新幹線と県道31号が交わる点、香蘭女子短大付近を49番バスは西(左方向)から南方向に曲がっていきます。
49番の車窓からごく稀に46番とニアミスするんです。
たまーに見えるんです。

バスが挟まるように信号待ちしてる姿を。(オレンジの車をバスに見立ててくださいね!)

この路線の変遷は「博多駅移転」の生き証人であります。まだまだ、人参町付近の旧道の話や竹下三つ角のバス停跡など、書くと膨らませる事はいくらでもあるのです。
ひとまずはこのバス趣味の醍醐味の一つである「奇天烈な経路を走る意外性を楽しむ」にはもってこいな路線が健在であることに感謝し、締めとさせて頂きます。

この県道が、ここで切れていなければどうなっていたんだろう?

46には致命的な弱点「西鉄電車とのアクセスが悪い」がありました。井尻駅を擁する45、大橋駅を擁する49のほうに、可能性があったのでしょう。恒時性を保てなくなり、使い勝手が悪くなった近代都市における長距離バス路線の淘汰としての典型例であり、分断という形ではあるけれども永らえているのは幸いと言えます。

小竹町コミュニティバス,ポール型

「最古の記事」カテゴリに登場するこちら。

この風景が・・・

ええーっ!!

なくなってる!!

七福団地は、見た限り物凄い人口が居たと思われる巨大な炭鉱住宅街でした。

中には雑貨店と理髪店と、あとはシャッターの下りた空きテナント。


階段を上るとここがいかに大きな団地で、かつて人で賑わってたかがわかりました。

こないだ行ってみてビックリ。
まずバス停の名前が変わっています。

・・・あの、後ろの黒い跡は何なんでしょう・・・

燃えてる・・・

た、多分、この位置関係だと思います・・・。
一緒に行ったカミさんに思わず「孤独のグルメ」の井之頭吾郎さん撮りをしてもらいました。

思い出したのですが、まだ七福ストアーが健在だった頃写真撮ってたら、わらわらと遊んでいる子供たちから
『なにこれー、雑誌とか載るとー!?』
『お兄ちゃん記者かなんかー!?』
って声をかけられたのを覚えています。
あの子達はどうしているだろう。この写真を撮ってるときに見かけたのは、ご老人数名でした。

諸行無常・・・。

何でも揃っていたあの店が・・・

何も、揃わなくなってしまいました・・・。

日田バス,軒下吊り下げ

あ、ごめん、後編書くの忘れてた!

ある日カミさんと二人で近所に散歩に出かけた最中、裏路地に1軒のぜんざい屋さんを発見。住居を改造したもののようです。中には竹のオブジェがびっしり!異空間のようなその店内に圧倒され…と書いておいてそこのぜんざい屋さんの写真を撮り忘れてる失態。
撮ってから後編書こうとなってたら嫁さんが病気見つかって、と忙しくなったわけであります。
なので後編書けなかったんですね。ええいままよ、写真はもう別の機会でいいや。

店主と話をしてるうちに、この竹は日田のものを使ってる・・・との説明がありまして。え、日田のどの辺でしょう、色々聞いているうちに、あの入美ある有田線の周辺の地主さんであると判明。
「親戚が銀杏の缶詰ば作りよってですね」
あ、それ有田線の途中バス停「缶詰工場前」のそれか!!あれ銀杏のだったんだ・・・。
入美は道路の区画整理でなくなっていないかどうか情報を聞き出す機会が出来ました。曖昧な返事が返ってきました。
「あったような、なかったような・・・」

行ってみるしかなくなりました。
入美~横畑間の新道への路線付け替えのお知らせがあった以上、今年の桜が最後かもしれないと踏みました。
その日の天気は大荒れで、最初に向かった、毎年行くことにしている行楽地秋月では花腐しの豪雨が降りました。秋月を出て1時間強で、日田の奥へとレンタカーを走らせ。 
この周辺、小雨は降っていましたが桜はそこまで散っていませんでした。
まるでわれわれを待っていたかのごとく満開の入美桜が待ち受けてくれました。
晴れてたらなー、1日ずれてたらなー(前日は晴れてた)。多少はそう思いましたが。

もうここからは夢中になって何枚も写真撮りました。

このバス停、本当に美しい!!

惜別の気持ちを秘めて車を日田中心街まで走らせはじめたら、5分くらいでどっと豪雨が降りました。
まるで自分たちを待ってくれていたかのような、そんな気持ちになりました。
このバス停の去就はわかりません。ひょっとしたら桜を上手く残して、道路が整備されるかもしれません。が、この狭い道路のたたずまいは消えるでしょう。
なんだかんだで来年もあるかもしれないし、なくなるかもしれない。
とりあえず、今年こうやって桜の咲く入美が撮れたことに感謝し、また
「行こう!」
という気持ちを後押しした、あのぜんざい屋さんにも感謝せねば。

豪雨はその後数時間続きました。きっとあの直後に桜は散り果ててしまっていたでしょう。
「日田バスの女王」は待っていてくれてた、と自分は信じることにします。

西鉄バス福岡市内線46番


新幹線開通までの竹下線にあたる路線が運行しえた地図がこれです。
1962年に雑餉隈営業所、1965年に那珂川営業所が生まれています。
「どちらがどの経路を運行するのがよいのか」
をかなり手探っていたと見え、この昭和30年代の観光案内におけるバス路線表ではもう年毎に路線表も番号もバラバラ。
五十川線が雑餉隈に向かい、大正通り(高宮回り)が46番の井尻から先を担当してた地図があったり。
西畑に関しては、当時は那珂川営業所もなく道善付近はあんなに発展してなかった。むしろ西隈や後野付近が那珂川町の物流拠点だったため、とりあえず46は西畑に、62は南畑という割り振りでいいんじゃない?という割り振りでそうなったかと思われます。これは結構長い間定着していましたが、営業所付近の区画整理と市街地化で街が発展。西畑も62に組み込まれていきます。
この時46番に組み込まれていた春日系統ないし牛頸行きですが、春日市内線系統の整理の際に6番春日原駅~春日~惣利~牛頸、8番系統井尻駅~岡本~春日循環~春日原駅という系統に整理されていきました。

博多駅~雑餉隈を結ぶ筑紫通りは開通が遅れました。なので現在走っている45番諸岡線は登場はかなり後になります。
福岡女学院中高大学というミッションスクールがあります。セーラー服発祥の学校として有名です。この46の沿線にあります。ここが業を煮やしたのかどうかはわかりませんが、井尻六つ角のところに土地を購入。
「ここから20分おきにスクールバスを出すんじゃあ!!」
となりました。井尻駅からバスがなかったから、女学院までアクセスできなかったんです。
現在46番が折り返しで使ってる井尻六つ角の土地、そういう経緯で建てられたのです。46が折り返しで使っていた時期がありましたが、井尻一丁目の折り返しの廃止でほぼ遊休地と化していたものを間借りしていた状況に過ぎなかったこともあってかのちに雑餉隈折り返しになり、さらには廃止になっていきます。

さて46番が待ち焦がれた県道575号線の開通はなし崩しになりました。
それは、突然の新幹線基地の建設。
そして当時の市長の英断で、新幹線基地に延びる高架線の下を片側2車線づつの市道として整備することに決めたのです。
県道575線の計画とまるかぶりな上、対面2車線の道路としての整備では、優先性や利便性で勝ち目はありません。

そしてのちに開通した新幹線通り、そしてそこを新路線として開通した49番弥永線は
「あの時期の新路線で空前のヒット作」
だったそうです。

基地建設のため46番は



と経路を変えざるを得ませんでした。

その後福岡市は政令指定都市になり、南区役所の置かれた西鉄大橋駅はターミナルになりました。そしてさらに、松ノ木の上流に西鉄は「那珂川ハイツ」なる団地を建設します。
開通当初こそ道路の整備が遅れて

こんな感じで走ってたわけですが、道善までの道が開通するとそちらのほうがメインルートになってしまいます。
そしてさらに追い討ちをかけたのが博多南駅の開業です。

この路線の晩年はいわゆる「政治路線」でした。
上白水の方々がどうしても譲らなかったとききます。
49番はやがて道路の整備で下白水で合流、上白水まで乗り込んできました。
勝ち目はありません。お客さんは49番のほうに流れました。

何故か46番はこんな支線を作って対抗。ちなみにこの部分は49番、そして今の630番に受け継がれています。

その後博多南駅が開業、49番は上白水を捨てて博多南駅に路線を変更したほど。
しかし、46番は見向きもしませんでした。

これが完全な仇となり、那珂川部分に至っては
「なぜこんなとこにそこに行くバスがあるんだ状態」
になっていた感はぬぐえませんでした。
下中原から博多南駅には、歩くには少し距離がありました。開業当時、田んぼの向こうに見えはしてたんですけどね、かえってそれが仇になる遠さというか。今は建物がびっしりで見えません。

松ノ木(新道)から五郎丸に入る部分。歩道つきの新道を颯爽と大橋方面に走る路線を尻目に、こんな感じの旧道に入っていく46番の姿はわびしさがあったものでした。「ウララ」のホーロー看板が確かありました。

次回最終章(5)、もしも、でも、やっぱり…IFの世界へGO、そして路線変遷史にみる福岡商業圏の移り変わりで最終章とさせていただきます。

西鉄バス福岡市内線46番


見よ!博多駅移転直前の詳細都市地図であります。発行は同潤社とありまして、不動産を扱う会社として現存しているようです。

裏側にはなんとバスの路線図!この▽線が竹下線にあたるようですね!

駅~五十川~松ノ木行。番号は振られてないようです。
62番にあたる耶馬渓線の「珍」が少し気になります。

要は博多駅から那珂川の右岸地域の集落を攻めていく路線として計画されていたということが一目でわかります。
この地図を元にして作成した路線図がこんな感じです。

駅前通を管弦町(現在のキャナルシティ南端付近)から分岐、そして竹下三角から県道575線こと福岡中原山田線に沿って南下。
井尻口に出るまでは完璧な幹線路線です。
しかし、ここで先にまず県道31号線のほうが先に開通してしまいます。
「5号線」と呼ばれる路線ですね。自衛隊駐屯地、米軍基地などが作られたためにいち早く整備されたわけです。
この地図では、昔の地図にありがちな話ですが郊外部分が千切れていて、
「例の接合部」

はどうなっていたか不明です。

博多駅から那珂川右岸を颯爽と走る幹線ルートになっていたことからか、この5号線にバスはもぐりこんでいきます。春日・牛頸支線の登場です。福岡市図書館にて、郷土資料コーナーに置かれていた観光案内によると3~5往復程度の支線だったようです。
この牛頸支線はかなり長い間残っていたようで、南ヶ丘団地・平野ハイツなどの開発とともに姿を消したようです。その名残として一時期、春日番号8番井尻~岡本~春日~春日ローンテニス~春日原駅という系統が存在していました。いわゆる路線免許維持という格好です。

本線の那珂川町方面はというと、この時点では山田が終点になっています。
かつてバス停の設置基準は特に狭隘路の多い農村部、山間部では厳しかったようです。山田には大きな神社があり、そこを折り返し点にしていたのは想像に難くはないです。

実はこの那珂川町方面、戦前に一度
「あまりに狭隘すぎる」
という理由で廃止になった経緯があります。これは「警弥郷史」という南区の郷土資料に記述があり、現在の警弥郷バス停付近に「背振神社」というバス停があったという記録が残ってます。
今も46番が入っていく折立の道、あれの南側をたどると、ずーっと戦前からおそらく道幅が変わらないまま裏道として残っています。そこを通って中原まで走っていたようです。廃止となれば納得は行きませんよね。一度手にしたトランスポーター、なんとか復活させたかったでしょう。当時はバスは運送屋としての使命も担っていました。だからこそ停留所に広さの確保が必要でもあったわけですが。この話は(5)くらいで膨らませることにしましょう。

井尻に迂回して、須玖を抜けて昇町に抜ける道に経路を変更。さらに「春日市史」辺りの記述から、後に西鉄に合流する参宮鉄道の路線に雑餉隈~春日・小倉・昇町~南畑(山田の先)があると発見。
辻褄が見事に合います。完璧です。
いくつかの資料には「小倉行きもあった」とあります。自作地図の「昇町」の南からバスは左に曲がりますが、小倉はその右方向の集落になります。その道路の延長線上にある現在のやよい号の「住吉神社」に折り返し場に最適そうな広場があり、なかなか興味深いです。

那珂川町右岸部分のメーンルートとして、ないしは春日方面からも博多駅へのメーンルートとして機能してたこの路線ですが、ライバルが現れてきます。

いや、自作地図の段階で気付いてると思うのですが
博多駅は移転しています。

この当時の竹下線の通ってた下人参町付近の裏道、実は実存しています。
「この道だけ店が古いぞ?」
って絶対気付きます。是非一回行って確かめに行ってみてください。

また線路の付け替えによって那珂川町から博多に行く道が距離的に左岸ルートのほうが楽になりました。古地図の路線表、よく見たら48にあたる路線、福岡市内(老司)で止まってるし!
「こくてつ通り」と、美野島陸橋の整備。そして竹下線は新しい線路と区画整理によって道路を寸断されてしまいます。古地図にある赤い線はその想定線ですね。

しかし逆の現象も起きます。区画整理と東領団地付近の経路付け替えによって珍奇な場所を通るぶん、あまり渋滞を知らず竹下まですいっと行けちゃう路線に変身。アサヒビールへの便宜のため道もめっちゃ広くなりました。
こうなればあとは県道575号線が整備されたら。
例のあの部分

ここさえ開通すれば!スマートな那珂川右岸ルートができてたんじゃね・・・とは、話は進みませんでした。

次回(4)、「新幹線基地、迷走、そして滅亡へ」の章へシーユー!

西鉄バス福岡市内線46番

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4190695&id=41567913
ここに言及があるとおりです。
とにかく変な路線でした。
自分が初めて乗ったのは「下白水~渡辺通4丁目」間。

一時間に4~5本程度でうち2本が通しで那珂川営業所、うち2本が五十川、1,5時間に1本上白水。上りの行き先はほとんどが天神であったと記憶していますが、博多駅止め、渕上前止めがあったかもしれません。井尻一丁目は折り返し場の移転か、もしくは折り返し場そのものへの設置請願かでのちに追加され、五十川行きも「五十川(井尻一丁目)」行きになりました。

小学校の頃は自動車普及率も低く、また南地区がそこまでベッドタウンではなかったので
「那珂川から博多駅地区に行く手段」
としての想定で運行されていました。実際客もそこそこ乗っていました。博多駅から下白水までずっと立ち通しだった記憶もあります。博多駅付近は官公庁街なのでベッドタウン化が比較的早かった須玖~白水地区からの通勤手段として需要が実際に見込めました。
またこの路線の経路が
「タクシーが使う裏道」
のような道路で、井尻~竹下~博多駅間はあまり渋滞しなかったことも功を奏しました。以前は国道387号線、現在の47,48,62が走るあの幹線は対面2車線で、特に老司四つ角の右折渋滞は目に余るものがあったほど。那珂川町からの通しの客も松ノ木付近であれば
「わざわざ那珂川営業所まで行く必要がある47より46のほうが早い」
と判断する時代があったのです。当時は那珂川ハイツ系統が存在しなかったので、松ノ木からは46のほうが便利であったと思われます。
ですがその使命は自動車普及率とともに徐々に薄れていきます。

とにかく、45番弥永団地線とともに、井尻六つ角のボトルネック部分での渋滞により駆逐された路線、この一言に尽きます。これだけはこの路線、解消できませんでした。この辺は(4)あたりで書くことにしています。

この時代の路線の特徴で面白いのが「新幹線基地付近」。

おかしなことになっています。特に晩年の46番を知っている人にとっては「下中原がない」「松ノ木の場所がおかしい」事に気付いていただけると幸いです。
早い話が、現人橋から雑餉隈へと続く一本の旧道を、新幹線の基地がぶった切ってしまったためにこんな変な経路をとっています。

(※わかりやすいぶった切られ部分)
もちろんこの一本の旧道は、当時は重要な幹線でした。バスを通すために整備されたという風情がいくつも残っており、五郎丸付近では最近までホーロー看板が残っていたほどです。
中原の場所はユニークでした。

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こんな位置関係で撮った写真。中央の建物のガレージのあたりに下りバス停がありました。
旧松ノ木は、今行っていると神社の真下にあり、いかにも田舎のバス停がありそうな風情が残っています。

緑の樹のとこが神社で、そこにバス停がありました。

なお新幹線博多基地は存在していましたが博多南駅なんてものはなく、ただ交通を寸断するだけの存在でした。南区の弥永から中原のとこにある信号機が目視できました。見渡す限り田んぼだったのです。当時信号機は旧道側だけにありました。

そもそもこの46番は那珂川町から街に出る路線としてはエース格の路線でした。
那珂川の右岸から攻めるのは俺に任せとけ!
そんな路線であったのです。それは昭和30年ごろ、まだ博多駅が北側にあり、商業の中心が川端~千代方面寄りであった名残でもあったのです…。

次回(3)では、手持ちの昭和28年古地図における46番(当時は別番号)の勇姿をもとに、博多駅の移転と福岡の商業地域の中心の変遷をまじえつつつらつらと。