日田バス,民家型


日田バス・有田線はバス自体も日田バスの車両を使っているが、完全に市の福祉バスの予算で走っているらしく。バス停の標柱はまるっきり、写真手前のものを使っている。

だから、日田バスの標柱だったものはこの形に全部置き換わっているのだけれども。待合所や軒下といったタイプはそのまま、放置されている。有田線では4個確認できたが、同様の山手線は残念ながら全てが置き換わっていたと思われる。

このバス停は、そのうちのひとつの軒下タイプ。
・・・というかこのバス停、おそらく廃止になってもそのまんまじゃないのか?って気分になる。・・・理由は、その置かれている高さ。こりゃあ手が届かないや。前の道路は改修済みの新道なんだけど、多分これ、路盤高が下がってるね。だから余計に、見上げる高さにあるように感じる。

おそらくこの福祉バスが無くなる時が来たとして。
この軒下の標識は忘れ去られたまま、そのまんまになるんじゃないか?

と、そんな淡い期待をしています。ずっと残ってくれたらいいなあ。

日田バス,壁型,崩壊系,民家型


日田バスの公式サイトの路線図pdfデータをCADに起こして、尋ねたバス停を改めて数えなおしてみた(※これ・未完成、急いでaiにして書き出したので一部文字化け)。 うーん、軒下・壁はなおのこと、意外と待合室も少ないなあ。2年前に比べると5~6個はやっぱり減ってるし。「鼠谷」、「山口」(実は標柱)、「星払」、「出野」が視認で消えてしまった。標柱の角型になってるものは、本当にここ何年かの置き換えだろうしなあ。

地元の人はこれらのバス停が生き残ってる現状が全国的にも珍しいことを、やっぱり知らないようだ。ちなみに福岡市内・郊外線にはつい最近まで待合室・ぶら下げ型のバス停が存在していたが、2年前行ったらなくなっていた。「うちにあるよ!!」という情報をお持ちの方、ご一報いただけるとありがたい。飛んで行きます。

さて、旧前津江村。
ここには宿題のバス停が二つあった。どうしても、見つけ切れなかったのだ。
1つは前津江旧役場付近の「梅木」。路線図で確認するも一度発見できず・・・ん、壁型バス停か!!

こんなんなってました。

がっくりしながら次の「川原」へ。前津江線は末端が二股に分かれていて、バスはまずこの赤石支線のほうにいったん潜り込む。それから、元きた道を折り返してもう1つの沢の大野支線、終点の座目木に向かう。
その終点がこちら。
「何もない」「忘れ去られた」なんて言葉が出る、寂寥たる風景の終点。

さてその一歩手前のバス停が、この「川原」。
バス停カット状に、道路が大きく左にスペースを開けている。その真ん中にあるのは・・・ん、ごみ置き場か。車を降り、ごみ置き場に時刻表がくくりつけられていないか、また周囲に標識が落ちてないか確認する。・・・ない。そこから分かれる道、旧道になっていないか。・・・地形的になさそうだ。近くの川、橋が一本しかないようだ。

で、建物といえば隣の赤石小学校からここまで、ひいてはその隣の温所まで。一向に見えないよなあ。あるとすれば、そこの本当に傾きかけた作業小屋・・・だけ・・・ええええええ!?

画像では普通に写っているんだけれど、この作業小屋。
反対側のほうから見ると、本当にいろんな部分がゆがんでしまっていて、指で押しても壊れるんじゃないか?って心配になるくらい。もうさすがに、この建物はまったく使っていないようだった(当たり前だ)。

手前の小屋はまったく別物、かつ現役の木材置き場。
中では地元のおじいさんが作業中、バス停の撮影許可をとる。
にこりと笑って「よかですよー」。

そういえば以前ここに来たとき、この赤石の支線沿線では誰とも出会わなかったはず。
ようやく人に出会えた。と同時に、自分の中にあったこの村の景色が、ようやく人肌を感じる色に染まっていったのを感じた。

日田バス,民家型,軒下吊り下げ


五馬線にあるバス停の王様。
その神々しい軒下バス停は、そのあまりにも軒下にあるという立地から、今までなかなか写真に収めることを躊躇させてきた。

ここはさすがに家の人の許可がいるだろうと思い、何度ドアチャイムを押してみても留守だったのである。
残念ながら上は遠巻きの写真。しかも携帯、画像保存サイズを間違えて小さいまま。これはいつか果たすその日までの宿題だったのかもしれない。

で、今日アタックしてみたら家人が表で園芸をしてらっしゃいました。早速了承を取るべく聞いてみる。
「あのう、すいません。このバス停の写真、撮らせていただけないでしょうか?」
「いいですけど、これそんな珍しいですかね?」
家人の方は、全くてらいのない表情でそう答えた。

写真を撮る間、このバス停が以前、「大坪尻」って名前だったのにいつの間にか「小坪尻」になった、という話をして頂いた。
撮影終了、丁重に礼を言い、幾重にもお礼をして現場を離れた。

日田バス、最近になってやっぱり標柱を作り変えているようだ。おそらくこのバス停も、もうじきそれに取って代わる予定だろう。それどころか、例の高速道路1000円の施策のおかげでこの一日2本の過疎路線自体が消えるかもしれない。日田バスのドル箱と想像していた高速バス路線のリストラが、先日発表になっているのだ。
いろんな意味合いで間に合った、という気分でいっぱいになる。
本当に家人の方、ありがとうございました。

日田バス,民家型


以前町田で書いたんだけれど、小学校の頃、中学受験学習塾の合宿でこの町の温泉にお世話になったことがある。
思えばそれが「軒下バス停」の原体験だった。

息抜きにといつも使っていた野球グラウンドまで、先生や旅館の方の引率でマイクロバスでよくみんなで移動。そのグラウンド側の乗降ポイントにしていたのが「湯坪」という軒下バス停。
一見して変だと気が付いた。当時住んでた福岡にあるバス停は、当然のごとく標柱を以ってバス停となす。それが、軒下にぶら下がった標識、時刻表は壁に張っただけって。嘘だろ?

帰りがけ、道中のバス停を凝視することにした。他にもそういうバス停があるかもしれない。
・・・すると、待合室の壁タイプのバス停、壁に貼っただけ、なんてのが連日、新発見という形で日を置いて出現。それはもうめくるめく日々だったなあ、うん。

・・・さて、そんな原体験から20年を経て去年、せりざわさん(※その日の写真は全て彼によるもの)と撮影に向かった。
残念ながら、当時の面影は減っていた。

(現在の「湯坪」。軒下バス停にしていた商店は廃業していた)

この「河原湯」は当時は軒下型だった。
この辺、温泉から出る蒸気がいっぱいで、金属製品の侵蝕も早いのだろう。そのせいか、他の地域のバス停と比べ物にならないくらいぼろぼろになっていた。けれど、再会するまで生き残っていてくれた。遠くの幼馴染に再会したような、そんな気分に浸った。

日田バス,軒下吊り下げ

日田は割と古い商店街が元気だ。この町にはそういえば何とかモールやら、何とかタウンやらが存在しない。
街中を走ると、「おい、昔ながらの軒先バス停、まだ残ってないかな?」って気分になる。
まあ実際そいつをリサーチするにはきっと、自転車が必要だろう。
自動車でのリサーチは危険だ。わき見運転は事故の元だ。
一度レンタサイクルでも借りてみようかな。あるかどうか知らないけれど。

・・・さて、街中にほど近いバス停で、今のところ唯一見つかった待合室タイプのバス停。
サッポロビール工場のちょっと下のほう。阿蘇・津江方面から日田の温泉街に向かう道の、大山川左岸を通る旧道沿いに、ちょっと目立つ形で鎮座しています。バスは、前津江ローカル線(赤石・大野線)のみがここを通る設定。

周辺人口、非常に多い。ゆえに車量も多い。
だがこのバス停に止まるバスは、一日3往復。まあ、実用性はないに等しいといえるだろう。
狭い裏通りを自家用車があくせくと通り過ぎる景色の中、時間が止まったようなこの待合室のたたずまいは、いつ来てもなんだかやるせない。

日田バス,軒下吊り下げ


日田バスの有田線は、公式サイトにも載っているにもかかわらず一応市の福祉バスに転換されている。
バス停のほとんども市の福祉バス用のそれに変わっている。

俺は日田バスのバス停としての「王手石」や「缶詰工場」が見たかったけれど、それはまあ仕方がない。
いや、この路線にそんな名前のバス停があるわけよ。
スッゲーそそる名前と思わね?
・・・無くなってしまったのだから男ならぐっと我慢だ。
一応行ったけど、真新しい標柱はやっぱ興ざめた。

さてそんなリストラクチャーをくぐりぬけて、早い話取り壊したり取り外したりが面倒なバス停が4~5個現存していたりする。とはいえちゃんと、真新しい標柱も一緒に設置してあるんだけれども。
終点・岩下の一歩手前のバス停。

美しい。
なんつうかこう、峠道の木陰で日傘を指す清楚なお嬢さんみたいな、そういう景色だった。
いや、幾つもこういうバス停には行ってるんだけどね。そんな感情になったのはこのバス停が初めてだった。

何でそんな感情になったのか、いまひとつ言葉にできないんだけれど。
桜の季節にもう一度訪れてみたい気がした。
あの木、桜だったら出来すぎだよな。確か違ったと思うけど。

大分交通・大交北部バス,地面型,崩壊系

バス停探すのも大変。

・・・どこだ?

・・・ここか!!

ここなのか!!!

 実際ここまで来ると自分も手馴れたもので、「ああこんな集落あんだったらどっかにありそうだね」で車を降りるとそこにあったみたいな、そんなことばっかりです。
・・・たけのこ掘り名人みたい。

日田市コミュニティバス,古バス停,壁型,民家型


有名な都市伝説で「犬鳴村」という話があります。
こんな話。(いや、イマドキのネットは楽だね!!)
ネットもなかった時代から伝わっていたから相当のもの。
「あの旧道だけはヤバイ」と言い合っているうちに悲惨な殺人事件が起き、ゲートのようなものができて半封鎖されてしまいました。

・・・で、大昔自分は某Z社でバイトをしていました。住宅地図最大手のあの会社です。
5年間もの間、いろんな場所を巡ったものでした。
まだバイトして間もない頃に、家5軒くらいの分け入った山奥の村にお邪魔したとき、住人にこんな話をされたのです。
「この辺の人は畑がここにあるけん、家は倉庫にしちょる人ばっかよ。普段は下に住んどる」

そのうち同僚が、この犬鳴の旧道からしか行けない集落に赴くことになりました。我々の世界ではそういう山奥の村は、そういうもんだとわかっています。
同僚は普通に仕事を遂行して、帰って来ました。人っ気はなかったそう。あそこもそういう村なんだな、という結論に。

ちょうどその時期、別の友人と飲んでいて、なぜか犬鳴村の話に。
「友達が行ったらしいんだよね。建物あるのに人っ気がなくて・・・そしたら斧持ったおっさんに追っかけられたらしいよ!!」
怖がる振りをして聞いていましたが、農作業中のおじさんに当たったな、おじさん辟易してるだろうな・・・と思いましたとさ。

・・・長々と関係ない場所の話を延々としたけれど、このバス停はちょっと怖かった。
ここは6軒くらいの集落なんだけど、本当に人っ気がないのだ。この集落の前後を含めて。

というか、この道自体本当に鬱蒼としたロケーションが延々続いて、不安にしかならない。
バス停が貼ってある家の荒れ果てっぷりが、いっそう不安感を増す。

何より怖いのが、田畑が見当たらない。いや、目に入らないってのが正しくて、たぶん斜面上の方角に耕作地があるんだろうけれど。それも余計に恐ろしく感じる。

日田バス式の標識が唯一残る旧中津江村のバス停。
ネットで調べる限り、昭和末期にはもう村営転換したとのこと。
バス停の名前も変わっているのに、この標識は昭和から時を止めたまま。

車を発進させるまでついぞ、人の気配はまったく感じなかった。
この恐怖も、尾ひれがついたら都市伝説に変わるかもなあ。そう心の中で納得しましたとさ。

日田バス,民家型

在りし日の晒し首バス停。

とはいえこのバス停、2年前くらいにもう標柱になってたので、こういう壁・軒先型バス停を標柱にするゼーレのシナリオはひそかに進行中なのかも知れない。日田バス補完計画、すべてはシナリオ通り。

この写真撮ってたときはそこまで「こういうバス停を集めよう!!」って意識が低くて。これ1枚しかないのよ。
うーん、もっと撮っておけばよかった。

大分交通・大交北部バス,ガードレール,壁型


ガードレールにくくりつけられたバス停。

ここは崖・川・橋で待合所のスペースがない。川、よく見ると擁壁だね。改修でバス停スペースが削られてこうなったのかしら。攻撃斜面側だし。
しかも橋の分岐点にバス停を置いているパターンだから、どうにも移しようがないパターンですね。

ここの路線(樋桶山線)は物凄くて、バス停が石垣の上においてあるだけとかざらでなあ。終点の標識はどこにも見当たらず。ここのサイトで存命中の写真を見ることができました。感動。そんな現在の様子は芳名帖にて公開しております。