日田市コミュニティバス,古バス停,小屋型


大分県、旧中津江村のバス停。

中津江村って調べてみると、大正~昭和~平成とおそらく、どこにもないくらいの触れ幅でものすごい変革を遂げて今に到る所で。近代史、そしてちょっと未 来を含んだ日本現代史の縮図なのかもしれない。鯛生金山→蜂の巣城事件→カメルーンチーム招聘。何気に第一次産業・第二次産業・第三次産業の全ての資源を 駆け足で消費し尽くさせられた村ともいえよう。

産業革命、農業から工業へのシフト、公害・環境問題、巨大公共事業、反政府運動、ハコモノ行政、国際的イベントへの参加とその経済効果、市町村大合併…。これら全部、経験した場所とは俄かに信じがたいくらい小さく、静かな村だった。
行ってみて思ったことは一言、「そして今は…。」

バス停は想像以上に素晴らしかった。

村営バス時代の時刻表。

大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ


大分県の中核市同士、中津と日田を結ぶ国道。その日田側から一番最初に控える峠道の旧道。
国道というやつは、世間のニーズに合わせて交通量もより大きなものを求められ、それに見合った道路が設計されて新しい道につけ変わっていくのが常。
山の峠道なんかになると、わざわざ橋をかけやすい上流まで昇っていくような細い道や、できるだけ勾配をなくそうと何度も九十九折で山を切り開くように伸び た道が。下流のほうにずどんと高架橋とトンネルをセットにした道につけ変わったりする。それは先人の努力が無駄になったのではなくって、われわれの技術の 進歩をむしろたたえるべきではある。

できるだけ自然のあるがままに沿ってできたような道のことが多い旧道と、そうやっていかにも人が自然を征服したかのような工法の新道にはたいて い、互いに行き来できるようになってないことが多い。知り合いにそういう新道の、特に高速道路の施設点検をする業者さんの話を聞いたことがあるが、まず駐 車位置とアプローチに苦労するのだそうだ。

それゆえバスは、日に一往復だけ、旧道の集落のおそらく学校の生徒のためにこの寂れた道を通っている。この待合室の前をかつては、峠越えのバスが日に何便も通り過ぎたのだろう。そしてその都度、幾ばかりかの人でにぎわったのかもしれない。
旧道は大変な狭い道で離合もままならなかったが、向こうから来る車は皆無だった。峠越えの道としての使命は終わり、静かな集落を結ぶ里道として伸びるこの 道。しかし並ぶバス停は、立派な待合室を携えていて、かつてのこの道が持っていた使命を忘れまいとしているようにも見えた。

旧道部分を過ぎ、新道に戻ると。新道沿いには土産物屋、ほ場整備が済んでその辺りに移り住んだ人。道が、人の住む場所を変えていく。いずれこの道もどこかにつけ変わって、旧道になるんだろうかね。

日田バス,軒下吊り下げ


鬱蒼とした森の中にたたずむ、傾いた待合室。

中にはほど近い駅の時刻表、かつてのこのバスの時刻表。爪で引っかいた「ふざけるな」の文字。その、鉄板に記されたとおりであれば8本運行されていたこの路線も今や朝昼夕の3本のみ。

離合とかいう言葉とはかけ離れたような山道を延々と行くこと1時間。高原の真ん中を縫うようにして走る道路沿いには、ちらほらと民家、 そして田畑。どこまで分け入っても人がいる。見えなくても、どこかに。森に差し掛かっていると三叉路の予告標識とともに「この先右は○○集落」、そしてそこにバス停。集落は森に遮られて、そこからはちっとも見えない。空は見上げないと見えない。だが、ここに人が来る証だけがそこにあって、孤独の不安がどこかに行くのだけがわかる。

そういえば、昔のその時刻表には「宇ノ木行き」という表記があるのだが、これは松原ダムの湖底の集落。
杖立に向かう国道のトンネルに名前が残っています。

世界が平和でありますように…

 ※そうそう、この文章書いたり写真撮った当時は平気だったんですが2009年夏現在、このバス停の待合室は床が完全に腐ってしまっています。もしこのブログを読んで探訪しようと思った方、絶対に中に入らないでください。(この文章を以って警告とし、一切責任を負いません)

西鉄バス・福岡市内


見そびれちゃったよ鉄腕DASH。なんか見た人の話によるとこのバス停から乗ったらしい。
次のバス停まで歩いたら、天神行きがあったのにね!

大昔住宅地図の調査のバイトしてたとき数回志賀島は半周しましたが、毎年冬場にしか行かなかったので自分の印象は「寒い」これだけです。

あ、このバス停の名前の由来はまんまです。金印が出たといわれる場所のすぐ下。
隣のバス停は「蒙古塚」で、塚つながりというなかれ。かたやお宝発見、かたや処刑場・・・!

西鉄バス・福岡市内


このバス停は凄く変です。場所としては国道を直角に曲がり、海沿いの集落へと向かう格好のT字路の入り口付近にあるはずなんですけどね、その T字路の辺りで国道が広い道路に付け変わっているのです。で、取り残された三日月湖のような支線の真ん中に、バス停が残っているんです。写真で見るとわか るかな、こんな感じ。

しかしねー、このバス停はそれだけじゃない。その三日月湖の間の空き地にはかつて腐りかかった待合室があったり、取り壊されたり、謎の施設が拡充 されたり・・・そして写真を撮りに行った辺りでは自分が視認するようになってからは2度目の荒廃期をお迎えになられておりました。周囲は一面の見通しのい い田園風景。ずーっと離れて、遠巻きにバスが律儀にこの細道に入っていくのを見てると、なんだかけなげで楽しい気分になるバス停です。

西鉄バス・福岡市内


福岡には75年まで市内電車が走っていて、実際自分の年齢くらいが市内電車を記憶できているぎりぎりと存じます。現にワタクシには渡辺通一丁目電停から 数駅を乗ったという記憶がおぼろげにあるだけです。チンチン鳴らなくて幼い自分は非常に不満だったのをよく覚えています。

市内電車の線路はほとんど、道路の真ん中を走るもの。しかし一部は専用軌道といって、通常の電車のように線路のみの場所(と書くとなんか変な表現 だよね)を通ることもあるわけで。で、そんな線路がなくなったあとその場所はどうなるか。多くはさすがに細長い土地だけ残っても・・・とばかりに放置され たり、区画整理でつぶされたり、公園になったり幅を広げられて道路になったりと、まあ福岡市内線でもさまざま。

そんな中で福岡市の東西を結んでいた、姪浜~九大前を結んでいた市内貫線の千代町~箱崎宮までの専用軌道は、バス専用道路として転用されているの です。現在はこの馬出通りのちょっと手前と箱崎までのみですが、バスが来ないと替わらない信号機とか、知らないとわからないけど面白い仕掛けがたくさん あったりします。

線路をそのまま専用道路にしたということで、この馬出通のバス停、市電の電停がそのまんま残ってあるバス停なんですね、実は。よく見ると路面電車用のプラットホームをそのまま使っているんですよ。おそらく、福岡市内電車の最後の生き証人と思われるこのバス停。いつまでも残っていてほしいものであります。

日田バス,民家型


道路は生き物。ゆえに流れの悪くなった道路は打ち捨てられ、やがて人の流れが絶えて枯れ行く運命なのですがまさにそういうバス停。

このバス停は橋が掛け替わって、川の向こうを国道が走るようになった場所。バス停自体はその国道と、川向こうの新道たる国道がかつて担っていた、 別方向へと結ぶ幹線の県道との分岐点に存在していたようで、橋の袂にあるでっかい三つ角と大きな標識。峠の茶屋然とした商店の軒先には「乗合自動車待合 所」・・・。

と、想像を張り巡らせるくらいしか出来ない、人っけの全くないバス停にはプレートも標柱もなく、二度と開くことのない峠の茶屋の商店の木戸には無 粋な、エクセル出力のバス時刻表が貼り付けてあるだけ。ぶつ切りになった橋の向こうには物産店などが並びにぎやかな気配。こちらから聴こえてくるのは木々 のざわめきだけ…

日田バス


バス停の標柱というのは道路交通法的には常識的な範囲内で別段、特に規制はないようです。高さが何センチ、厚さが何センチ以内といった規制もなければその逆に、こんな例もあるのよね。

ここは大分県日田市(旧前津江村)の最果ての終点、バスが入り込む隙間もないような隘路としか言いようがない場所もバスは容赦なく入り込んでやってくる、そして終点はよくわからない柱にぶら下げられたプレート。そしてやってきたバスが突っ込む一言は、こうだ。

「時刻表はどこだ!」

ひょっとしたら訪問者はそのバス以外来そうにない日もありそうなここに、そんなものいらないのかもしれない。

西鉄バス・筑豊

場所は、鞍手郡小竹町。
残念ながらバス停は廃止後に転換された町内循環バスなので、いわば鉄道の廃駅のような趣と思っていただけたらと。
小竹町は昭和45年に、付近の炭坑が全て閉山。宮田町にある炭坑だけが最後まで残っていました。

ここを走っていたバスは、そういう事情からか隣にある宮田町への、おそらくここに住んでいた幸運にも職にありつけることになった炭坑マン達の足として運行 されていたと思われます。このあたりは国鉄バス・西鉄バスの路線が入り組んでおり、国鉄バスがわざわざ迂回して地図上に、投げ輪のような軌道を描いてまで ここに足を運んでいた理由はおそらくそれなのでしょう。

西鉄バス・筑豊


筑豊地方は、もともとたくさんの炭鉱があった場所です。
昭和51年(1976年)8月の貝島炭鉱(鞍手郡宮田町)の廃坑まで、そこには多くの雇用があったわけで、そこにはそれがゆえの多くの人の営みがあった場所なのです。
筑豊の石炭は主に燃料炭としての品質しか有せず、主な燃料を石炭から石油へと転換させたエネルギー革命以降は需要の大幅な減少により閉山に追い込まれ。
同時に町も消えていき、社宅のあったすすきの原の真ん中にバス停だけが立っているのがこの写真の場所です。新町、つまり新しい町は、どのくらいの間そこに生まれ、そしてすすきの原へと還っていったのでしょうか。
 そして今自分が住んでいる町の未来もこうなのだろうか。はたまた、この国が・・・いや、この世界が。