日田バス,壁型,小屋型


バス停を探していると、コンクリートブロックでできた構造物が道端に出現して、「あ、あれかな?待合室じゃね?」と色めき立つも、近寄るとごみ集積場だった、ってなことが多々あります。
中には、もうバスが一日1往復なんてのになってるのをいいことに、こうなってる場合もあります。

この写真撮ってるとき、地元の中学生くらいの女の子がこっちを見てたんだが、「ごみ集積場の写真なんか撮って何しとんじゃワレ」って気持ちになったかと思うのよね。こうなっちゃうとバス停って認識も薄そうだしなあ・・・。

西鉄バス・福岡市内,民家型

大分に写真撮りに行ったりするとき、たまに地域住民から「そんなにこんなバス停珍しいんですか?」と聞かれることがある。
「ええ!!珍しいですよ!!日本じゃほとんど絶滅寸前です!!」
とはきはき答えてたりするんですが、
「少なくとも福岡にはありません!!」
と一度答えたことがあります。

ごめん、あれ嘘だった。

このバス停、凄い狭いとこにあるんですよ。
昔は確か標柱が立ってたんだけど、西鉄バスのあれってほら、物凄くでっかいじゃない。
割と車通りも多くて、結構邪魔だったのよね。家もみっしり建ってたし。
10年位前だったと思うけど、バス停リニューアルしたときこうなったんだった。
あの時はずいぶん思い切ったことしたなあと思った。

いやー、西鉄のバス停部品で壁バス停作ると、本当になんか違和感あるね!!

立ってる標柱は、並走するコミュニティバスのもの。
昔はそこにも家が建っていたはず。
ちょっとリニューアルの時期がずれてたら、この壁バス停は生まれなかったのか・・・。

大分交通・大交北部バス,ポール型

 珍しく、単純に珍名なバス停。まあたまには。

うちの嫁の
「30過ぎても、心は乙女!!」
という力強い開き直りが聞こえてきそうなバス停だ。

世の常として、ここで出会った人に乙女は見当たりませんでした。
それにしても、この地名はどういう由来があるのだろう。神話・伝承の類からつけられたのではと推測してしまうのだけれど。

で、調べてみた。
この辺りは海に近い平地で、写真の森は早い話が神社の森。
神社の名前は乙咩神社(おとめじんじゃ)といい、その御由来。

 當社は今年より千二百九十年前人皇第四十三代元明天皇和銅三年現位置である古代の古墳上に宮柱を鎮め神籬を設けて仲哀天皇神功皇后應神天皇の御三柱の御神霊を奉祀したのが御創建と言ふことになつております。
又比売大神外御四柱の御神霊は其の後に合せまつられた神々であります
本社は乙比咩社乙咩八幡宮乙咩社などととなえられておりましたが明治四年乙咩神社と号することになりました。往昔この地は八幡大神の御神霊御霊幸の霊地 として宇佐八幡行幸会の大儀にはしばしば御巡幸あらせ給ひ又朝廷より奉幣使等の御参向もあつた程のまことに御由緒の深い神社であります。
尚宮下の南にある乙女水(誓水)は八幡大神御霊幸の際最もゆかりの深い御霊水と伝えられております。
(※こちらのサイト他に記述されておりました文章を抜粋)

乙女水。
今、心の中の男子中学生(1年)が物凄い顔をした子は、即刻このウインドウを閉じることを命ずる。

西鉄バス・筑豊

2f56455d.jpg 炭鉱住宅、略して炭住。

ところで自分は写真については本当に無知である。
しかも大昔、自称写真家の男にとんでもない目に遭わされた事があり(※詳しく話を書くと「賠償」だの「訴訟」だのという素敵に生臭い言葉が並ぶので、絶賛割愛)。またこの男がよく写真技術の薀蓄を語ってるのに辟易してたのね。
ゆえに写真技術の向上という部分は意図して勉強しようと思っていない、というか複雑な気分になる。

なもんで、時折物凄いものを撮ってるにもかかわらず、撮影技術的なもので台無しになっているものをこしらえてしまうのである。
この画像はそんな部類に入るものらしい。
ビバ逆光。
筑豊で育った年配の方が驚愕していた。まだ残っていたのかと。

最近同じ場所に行ったら、あの木造の炭鉱住宅群は素敵な新築の鉄筋の家並みになっていた。
恨むんならその自称写真家の男を恨もうか、いやだめだ。別にどうでもいいや。
VFSH0107-1.JPGVfsh0111-1.jpg


大分交通・玖珠観光,小屋型


いや、バス停というよりもね・・・。

この写真を撮ってくれた(しかも写真の腕は数段うまい)鉄道オタクの友人と撮影旅行中(2007年秋ごろ)、ちょこっと熊本県を通過。
バス停よっかこの駅の標識のほうに目が行った。っていうか、行くさ!!

宮原線、実は何度か見かけたことがある。
通っていた中学受験学習塾に合宿授業があって、この近くの温泉宿を使っていた。
たまにみんなで外に出て、泳ぎに行ったり野球をしに行く移動のバスの車窓から、宝泉寺駅や町田駅が見えたことがあった。
ちょうど町田駅から、何人もの人が階段を降りる様子を見た記憶がある。列車到着時だった。

・・・実は印象、あまり変わってない。この階段からたくさん人が下りてきたの見た。頂上には駅舎のようなものが見えた記憶がある。
ワクワクしながら、階段を登った。

うわあ!!!
駅、残ってる!!

日田バス,民家型

バス停の写真を撮るとき、その路線がまず乗ることが叶いそうにない路線だったりすると、当然のごとくバス停を「探しに行く」という作業が重要で。

そこで活躍するのが「一昔前の」(※重要!!)道路地図。
大分県を巡回するときに自分が使ってるのは平成6~7年度の人文社のもので、国東半島めぐりの際は「ハア?そんな路線なんてもうねーよボケ!!」的肩透かしをそりゃもう何度もさせられた。

九州のバス時刻表」という便利なサイトがあります。このページは地図に表示されたバス停をクリックすると、時刻やら運賃やらが九州じゅうどこでも検索できる、みたいな優れものサイトなんですが、この地図の元データというのが「提供:昭文社」。いわゆる書店で売ってる安心の道路地図ブランド、マップルですね。
最新の大分県マップルなんですが、実はこのバス停は入っていないんですな。

九州のバス時刻表」より。

書籍だとこんな感じ。「塚田」は入ってない。

サイトでは、「ん?日田バスの資料では『塚田』ないよなあ・・・この間にあるみたいだし、この真ん中に入れちゃえ」って感じで無造作に真ん中に置いてあるわけです。

自分も実は、ここの路線はそうなっているものだと思っていて、この塚田バス停の存在も知りませんでした。バス停には路線表や「次のバス停」もないし。しかし、前々から気にはなってたんですよねえ。なんで地形的にあんな大きい集落の内に入らずに、沢の根元のところで曲がっていくか。沢の根元のところにバス停を置くにしては、ちょっと奥の集落の人々の使いにくいとこにバス停あるし・・・。
「古賀橋」はあまり人気を感じない場所に、「古賀」は沢の根元から、別の沢の方にちょっと登ったところにあって、向かい側の大集落の人はとても使いづらかろう。しかし、実際この古賀と古賀橋の間は路線的には一本道に見えるわけですよ。お互いが見えるし。あー、次のバス停あそこと誰もが思うでしょう。

そこでその、古い地図を投入。古い地図なのに1000円近くした。

・・・!!!!!
そう、奥の集落にバス停があるらしいことがわかりました。
そもそも自分が何故こんな場所に興味を持って、バス停を発見して歓喜したかというと。
そこの集落には200円では入れる天瀬温泉の源泉を使った温泉センターがあるからです。
たまに腱鞘炎やらがひどくなると、ここに入りに行くことにしているくらいです。

早速、温泉センターを通過し、集落の真ん中に突進していくことに。
すると・・・。

発見まで、おそらく2年かかったこのバス停。
2年前も今も、来るのは一日1往復。

そして見つけた感想は
 「こりゃマップルも見逃すわな」。

ところでつい先週、またこの温泉に訪れました。もうこの辺のバスの写真は全部撮りつくしたわい、などと豪語していた自分だったのですが・・・(※引き)

JR九州バス,ポール型

このバス停のデザイン、お世話になっている表現ワークショップで写真を撮られている方の作品。

地名に「猫」はなかなか付かないものなのですが、ここの地名は地元伝承の「追い出し猫伝説」によるもの。
詳しくは待合室中に入ってみると伝承の全てが書いてあるのです。

要は「外宇宙からの生命体・巨大鼠がまさに地球を侵略せんと、この地に最前線基地を築いていた。これを地元の猫・イダテンとベンテンはよしとせず、お供のアドン・サムソンを引き連れ、まずプロテイン製造工場から爆撃。戦いの火蓋は切って落とされた!!」的な話です。自分の曇りきった目にはそう見えました。

(※本当の伝承はこちら)

・・・で、デザインをやったその本人のお話。

「ともかくね~、猫の色塗ってたらかわるがわる地元の人がやってきて、この追い出し猫の話をしてね~。一人したと思ったら違う人がやってきてまた同じ話してきて・・・よっぽどこの村は、猫に助けられたんだろうね~。もうずーっと塗ってる間その調子。」

猫塚は、その大鼠との戦いで死んだ多数の猫の弔い塚だとか。
この町ではこの伝承にあやかった「追い出し猫人形」を売ってると聞きます。

西鉄バス・筑豊

daibuko01.JPG昔西鉄バスの乗降調査なんてアルバイトをやったことがある。
しかも行ったのが田川後藤寺営業所である。

打ち合わせに知り合いのバスマニアと向かい、飯塚で別れて電車で帰る道すがら。
どうせまっすぐ帰るならと、ええいままよと今は亡き17番、高田経由大分坑行きに飛び乗った。「大分」だし、どうせ筑前大分駅の近くだろう。

・・・バスは、高田までは素直に県道を走っていたが、途中から田んぼの真ん中の狭隘路を突進。
筑前大分駅の横を目もくれずかすめ、旧街道の宿場跡みたいな農協前バス停まで到達。運転手はここでも降りない自分に気づいた。
「あ、趣味で乗ってますね?」
・・・ということは、早い話。終点はおっそろしく何もないか、こっち廻り系統が遠回りか・・・どっちも正解だったのだけれど。運転手は色々話をしてくれたのち「あっち経由(現存の路線)のほうも面白いから、帰りはそっち使ってみてください」とのこと。

バスはジェットコースターみたいに、狭隘路をひたすら曲がりくねって進んだ。進路に急に平地が開けた。
草原。ところどころ、廃屋。そしてその真ん中に古ぼけた購買店と、バスの営業所が立っていた。
バスを降りた。店はやっていた。店の横には、屋根がつぶれかかり、柱は斜めになった廃屋が2~3軒。

帰路のバスまで30分あり、草原の向こうまで歩いた。
道路の真ん中に、次のバス停が立っていた。
「新町住宅」という名前のバス停は、おそらくここにみっしりと炭坑住宅が建っていたんだろう、という証。

あれから何度もここに来る。
まず廃屋が消えた。
それから、購買店がなくなった。上の写真は、営業所のみになってしまったなあと感慨深げに撮った記憶がある。
そして今年、営業所までもがなくなった光景を見ることになった。

まだ、バス停は消えていない。
PICT0191_R.jpg PICT0194_R.jpg

大分交通・大交北部バス,壁型,民家型


耶馬渓地区、現中津市エリアで、今のところ多分唯一発見できた壁バス停。
旧式看板まで完備、かなり貴重です。

道がおっそろしく狭いためか離合ポイントも作られていたりします。バス停の前の道路幅員がちょっと膨らんでいます。
この離合ポイントってのは、「バス路線の遺構」として残るもんでして・・・いつか、柳川の谷垣新開に写真を撮りに行くかのう。あの辺は非常にわかりやすい。

この路線(相ノ原線)はバス停の宝庫でした。素晴らしい。

西鉄バス・筑豊

meiji06.JPG さすがに筑豊といえど、現存する「坑」のつくバス停はもう3つしかない。
平恒坑・天道坑・三井四坑・斜坑はもう消えてしまった。

このバス停は終点なのです。現役バリバリです。
インターネットのヤホーでも当然出てくる上、あのいまいましい
「明治坑の賃貸アパート/マンション/一戸建て物件/分譲住宅/賃貸情報は …」
だって出てきます。

寂れた公園には子供っけなし。
しかしこのバス停には、人っ気は感じられます。それも多大に加齢臭が漂うような。
待合室にはドサ周りの大衆演劇のポスター。
いかにも年配好みの外装をしたスナック。

残った「坑」の一角、まだまだ元気です。
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