室原(熊本県小国町)
旧中津江村に行くと、立派な木で作ったバス停にあんまりにも大まかな時刻表がついている。見た人ならわかる、大雑把かつダイナミックな時刻表。何故って定期便は0.5往復の1本だけでその時刻が全バス停分書いてある。あとは前日予約で時間指定をすると乗ることができるらしい旨が書いてある。
その時刻表の右下に、
「室原発小国行き」
なる一日5本の時刻が入っている。
室原は中津江の中心・栃原から車で5~10分、歩いて多分1時間くらいか(高低差きつい)。
県境を越えたとこから、小国というやや開けた街に出られる交通手段になっている。日田よりもずいぶんと近いし、病院などはこっちにあったほうが便利だろう。
で、行ってみた。
あ、バスがいた。
このブログバス停を扱っているが、バスそのものはなかなか出会うことがない。
自分の撮ったバス停画像庫を見ても、バスが写っているものは本当に少ない。
バスそのものに興味がないというのもあるが、バスそのものに携わっている関係者(ここでは運転手)に出会うと気恥ずかしいというのがある。
ところで中津江村と聞いて室原とくると、ぴんと来る人がいるかもしれない。
そう、日本の巨大公共事業による土地収用に一石を投じた、蜂の巣城事件。
1956年の筑後川大水害に端を発した治水目的で、松原・下筌ダムがここに建設されることになった。しかしあまりに事を急いた建設省は、地元住民への説明不足・一方的とも言える事業認定など、住民への不信感を高まらせるに余りある失策を重ね。
室原知幸氏率いる住民たちは、蜂の巣城と呼ばれる監視小屋を建て篭城。
その顛末はぜひ調べてみてほしい。
室原氏は、ダム建設後のインフラ整備について、特に現存する橋や道路についての注文をしたという。
そういわれてみれば、中津江は橋や道路はしっかり充実しているのに、どぎつい人工物の色を一切感じない不思議な感じがした村だった。
ディスカッション
コメント一覧
昔あったみたいですね!!蜂の巣城。
私は新日本窒素労組の写真集で知りました。
何年か前までは津江中学校のある池の山まで産交バスが来てましたよね。
一回、栃原団地から池の山まで歩いて乗り継いだ事があります。10分くらいかかりました。しかし、室原まで歩くのはキツいでしょうね~。
そこまで、自家用車で送ってもらうにしても、それなら最初から小国に送る方が良さそうですし・・・。
何のために時刻表が貼ってあるんだろう?かなり謎ですね。やはり歩けという事なのか?
>蜂の巣城
思えば昔の記事(前身ブログの移設エントリ)の「山口」でちょっと触れましたね。
中津江村の歴史は本当に明治~平成の日本近代史の全てが詰まっていて、奇跡を見るようです。
>池の山
やっぱり廃止は越境者が少なかったって事でしょうねえ。越境路線も大好きなので、残念です。神杉野は偉いと思う。…竹原峠もきれいになったし、柴庵を鯛生に…無理か。
>歩けということなのか?
でも、田舎暮らしの人々ってかなり健脚ですからねえ。都会人が歩けといわれて音を上げるあの距離でも、ホイホイ歩いていきそうな気がします。それくらいじゃないと田舎って住めないものなあ。
私も詳しく覚えていませんが、市町村境を越える路線は、平均15人以上乗らないと国や県からの赤字助成金が出ないというのがあったと思います。池の山廃止はそのせいでは無いかと勝手に推測していますが実際はどうなんでしょうね。
それから、田舎の人が健脚と言うのは頷けます。以前、人吉~鹿目を結ぶ産交バスに乗った時の事ですが、同乗した推定年齢80歳のおねえ様が行きは人吉まで2時間かけて歩いてきたと運転手に話しかけていました。
無論、私が唖然としたのは言うまでもありません。10代20代の人でも絶対に音をあげる距離ですから。
しかし産交バスは、停留所は意外と良く整備されていて、趣味的には面白味が無いんですよね。
>同乗した推定年齢80歳のおねえ様
昔遺跡発掘の測量をしていたとき嫁ともどもお世話になった、80歳の元少年兵パイロットの御仁は、発掘関連の土木作業のエース格でした。
昔の人々は体のつくり方から違う、と感嘆したものです。
>停留所は意外と良く整備されていて、趣味的には面白味が無い
逆に言うとそれは、バス事業にきちんと手をかけているってことなんでしょうけどねー。
他地方じゃ残らないような非採算的路線も、結構まだまだ手塩にかけてるし。
痛しがゆしってやつですね。