日田バス,小屋型


このバス停、妙大寺中通りと続いたあとしばらく行った先に出現する。
一日2往復のローカル線に似つかわしくない立派な待合所に、気の利いた手製の木の看板。

「のっちょくれ」は地元の方言で、「乗っていってくれ」「乗ってけ」か。この路線の先の終点近くまで行くと、廃止反対看板も見受けられたりするから、地元住民にとっては現状ですらどうにかしたい状況なのだろうと思う。

どうなんだろう。地元民にとっては実際「コミュニティバス化」がよい選択肢な現状。しかし・・・このバス停趣味的にはどうかなー。標柱とか看板とか撤去されちゃうだろうしなあ、惜しげもなく。しかしまあ、それでこそ健全ともいえるし・・・うーん、痛しがゆし。

日田バス,古バス停


もう自分も日田バスは廻りつくしまして、『むう、このバス停の標識の形は初期!!』『軒先ないし待合室型の中期!!』などと勝手にカテゴライズをできるほどになりました。

じゃ、このバス停は?

「軒先・壁タイプ中期を無理に標柱にくっつけたもの」。
日田バス全体でも他に1個あった、非常に珍しいタイプ。

この路線、玖珠町から日出生を越えて宇佐に抜ける県道(三又川のその続きに当たる場所です)沿いのバス停。大幅な改修のおかげで、いくつかのバス停が新道に移転したり、廃止されたりしている。このバス停はその旧道の入り口付近に立っていた。

・・・今考えたら、その『バス停が元あった場所』を見に行くってのもいいんじゃない?
ってことも考えたのだけれど、実はその直前この新道のあまりのバス停の少なさに、何箇所か旧道に入り込んでみたのですよ。そしたら、壮絶なまでに自然回帰を起こしていて、とても車で入り込める雰囲気じゃない!!
特に『砥石谷』バス停(廃止)のあったという付近は完全な藪+資材置場に使われていて、探索しにいけば面白いのだろうけれど時間+装備なし。リサーチできませんでした。
柿木(移設)~石飛(移設)間は、かろうじて現在でも通行できます。おっそろしく暗いトンネルがあるでよ。

てな訳で奥の集落には行かなかった「老舞」。
近くに県道の橋があって、翁の面のレリーフに「老舞橋」と銘が打ってあります。

日田バス,小屋型


日田バスのバス停には実によくある「晒し首」。
昔のタイプは待合所ないし軒下に掲げるしかない設計の金属板で、主をなくしたプレートはその辺に放置、ってなことが本当に非常に多い。

まれにいくつか、このプレートが行方不明のバス停も何個か見受けられる。
待合所に時刻表だけが貼ってある寂しいバス停があって、そこにどっかの不届き者が業務用の特殊な紙(A0サイズ)を数十枚投棄していた。必死に足で、その紙やらごみやらを掻き分けながら、バス停を探した俺。なんか、何やってんだ…って気分になった。

このバス停は幸せで、ちゃんと首は大事に保管されている。しかも、日田バス特有の「最近パソコンで作って、バス停の名前がちゃんとわかるようにしましたよラミネート」はバス停内に貼ってあり、プレートのほうは凄いことに旧来のものが使われてる模様。おお、貴重じゃないか。

しかし、近づいて・・・

あ、裏返してただけか・・・。

場所は別荘地も点在する集落のあたり。
この路線(本城線、1日1往復)は完全通学用だけに、バス停は手入れが行き届いていた。

日田バス,ポール型


田舎バス停を撮っていて、結構つらいものがあるやつが「廃集落」のバス停。
果たしてこのバス停に意味はあるのか、と考えると同時に。
これを写真を撮っておく趣味は、ひょっとしたら悪趣味なのではないか。
そう思うときがある。

「秘境駅探訪」という趣味が最近静かなブーム(本当にこの表現がふさわしい)なのだけれど。鉄道趣味に含蓄がなく、それに魅せられた人々にとってのそれは「何もないところに癒しを求める趣味」として認識をしていると聞く。
何でもある都会人が何もないものに癒しを求める、そいつは都会人の傲慢じゃないのか。いやいやそんなつもりはないけれど。ないはずなのだけれど、それが傲慢であるというのはまったく否定することはできない。心の片隅に置いておかなくてはいけない。

このバス停は、大山ダム建設前に撮影したもの。
とっくの昔に人々は立ち退いたのか、それともここから行ける集落のほうが立ち退いたのか。
いずれにせよ壮絶に人の気配がしない場所にぽつんと置かれているバス停だった。
この当時時刻表には「ダムによる道路付け替えにより下流のバス停廃止のお知らせ」などが貼られていた。
この写真を撮りながら、冒頭の罪悪感を覚えてしまったのはきっと、「最初から何もない」ではなくて「もともとあった場所を、何もなくしてしまっている最中」であったからなのかもしれない。

現在はこのバス停のあった場所は、ダム工事道路として封鎖されている。
バス停は封鎖されている地点そばに移設されているが、相変わらず人の気配はまったく感じることはできない。

日田バス,壁型,民家型


今日は所用があり、天神(福岡市の繁華街)に行きました。人に会う際お土産を買わなくてはと思っていたら、ちょうど市役所の前で大分の物産展イベントをやっているじゃないですか。テントブースの一つ一つに、大分県のなんとか市、なんとか町と書いてらっしゃる。

で、いくつかの市で情報を収集し、玖珠町ブースを通りがかったところで呼び止められる。パンフレットを受け取る。相手は、自分よりちょっとしたの年齢であろう女性お二方。
「いやあ、あたしゃ玖珠はよく行くんですよ、写真撮りにね。珍種があるんです」
「ああ、植物とかそんなのですかね?」
「バス停ですよ。日本でも珍しくなった、変わった形のバス停があるんです」
「え。そんなのありますっけ?どの辺ですかね?」
「玖珠町ですと、北山田の駅から南行ったとこ・・・妙大寺とか、中通りとか」

「・・・それ、私の住んでるとこです。」
「・・・うわあ。」
「確かに壁に貼ってるだけですもんね。よく考えたら珍しいですね」

てなワケで、そんな奇跡体験をしたところでこれを出さないわけには行かない「中通り」。
発見時は夕方で、またこの道路車通りも多かった。地元の人も怪訝そうにこっち見てた。うん。
ひょっとしたら撮ってる姿、見てたかもしれませんよ!!

かなり希少な発見困難型軒下バス停。もし車などで探索しようと考える方がいらっしゃったら、探すのに夢中になって、事故らないよう気をつけてください。あ、それからできれば玖珠でお買い物をして帰ってください(ささやかなPR活動)。

日田バス,壁型,民家型


九州のバス時刻表」には場所を特定されていないバス停。そりゃそうだ。自分も3度目でやっと発見できたくらいだし。道は狭い、結構交通量もある。おまけに板塀。初見で発見できたなら、気付くほうがおかしい。

玖珠町と日田を結ぶ国道から、山側の集落を経由して再度北山田駅付近で合流する迂回線のバス停。迂回線は真っ先に廃止の対象になりやすいものなのだけれど、再合流した国道の更に先にある盲腸線(山浦線)と合体することで生き延びています。

この迂回線、初回でバス停を2つ見落としたところで「これは期待出来そう」とは思ってたけれど。
この隣の「中通り」は件のサイトには存在すら認められていません。これは凄い。
冒頭のリンクに載っている地図のこのバス停の位置は、その「中通り」のものです。

日田バス,民家型


日田バス・有田線はバス自体も日田バスの車両を使っているが、完全に市の福祉バスの予算で走っているらしく。バス停の標柱はまるっきり、写真手前のものを使っている。

だから、日田バスの標柱だったものはこの形に全部置き換わっているのだけれども。待合所や軒下といったタイプはそのまま、放置されている。有田線では4個確認できたが、同様の山手線は残念ながら全てが置き換わっていたと思われる。

このバス停は、そのうちのひとつの軒下タイプ。
・・・というかこのバス停、おそらく廃止になってもそのまんまじゃないのか?って気分になる。・・・理由は、その置かれている高さ。こりゃあ手が届かないや。前の道路は改修済みの新道なんだけど、多分これ、路盤高が下がってるね。だから余計に、見上げる高さにあるように感じる。

おそらくこの福祉バスが無くなる時が来たとして。
この軒下の標識は忘れ去られたまま、そのまんまになるんじゃないか?

と、そんな淡い期待をしています。ずっと残ってくれたらいいなあ。

日田バス,壁型,崩壊系,民家型


日田バスの公式サイトの路線図pdfデータをCADに起こして、尋ねたバス停を改めて数えなおしてみた(※これ・未完成、急いでaiにして書き出したので一部文字化け)。 うーん、軒下・壁はなおのこと、意外と待合室も少ないなあ。2年前に比べると5~6個はやっぱり減ってるし。「鼠谷」、「山口」(実は標柱)、「星払」、「出野」が視認で消えてしまった。標柱の角型になってるものは、本当にここ何年かの置き換えだろうしなあ。

地元の人はこれらのバス停が生き残ってる現状が全国的にも珍しいことを、やっぱり知らないようだ。ちなみに福岡市内・郊外線にはつい最近まで待合室・ぶら下げ型のバス停が存在していたが、2年前行ったらなくなっていた。「うちにあるよ!!」という情報をお持ちの方、ご一報いただけるとありがたい。飛んで行きます。

さて、旧前津江村。
ここには宿題のバス停が二つあった。どうしても、見つけ切れなかったのだ。
1つは前津江旧役場付近の「梅木」。路線図で確認するも一度発見できず・・・ん、壁型バス停か!!

こんなんなってました。

がっくりしながら次の「川原」へ。前津江線は末端が二股に分かれていて、バスはまずこの赤石支線のほうにいったん潜り込む。それから、元きた道を折り返してもう1つの沢の大野支線、終点の座目木に向かう。
その終点がこちら。
「何もない」「忘れ去られた」なんて言葉が出る、寂寥たる風景の終点。

さてその一歩手前のバス停が、この「川原」。
バス停カット状に、道路が大きく左にスペースを開けている。その真ん中にあるのは・・・ん、ごみ置き場か。車を降り、ごみ置き場に時刻表がくくりつけられていないか、また周囲に標識が落ちてないか確認する。・・・ない。そこから分かれる道、旧道になっていないか。・・・地形的になさそうだ。近くの川、橋が一本しかないようだ。

で、建物といえば隣の赤石小学校からここまで、ひいてはその隣の温所まで。一向に見えないよなあ。あるとすれば、そこの本当に傾きかけた作業小屋・・・だけ・・・ええええええ!?

画像では普通に写っているんだけれど、この作業小屋。
反対側のほうから見ると、本当にいろんな部分がゆがんでしまっていて、指で押しても壊れるんじゃないか?って心配になるくらい。もうさすがに、この建物はまったく使っていないようだった(当たり前だ)。

手前の小屋はまったく別物、かつ現役の木材置き場。
中では地元のおじいさんが作業中、バス停の撮影許可をとる。
にこりと笑って「よかですよー」。

そういえば以前ここに来たとき、この赤石の支線沿線では誰とも出会わなかったはず。
ようやく人に出会えた。と同時に、自分の中にあったこの村の景色が、ようやく人肌を感じる色に染まっていったのを感じた。

日田バス,民家型,軒下吊り下げ


五馬線にあるバス停の王様。
その神々しい軒下バス停は、そのあまりにも軒下にあるという立地から、今までなかなか写真に収めることを躊躇させてきた。

ここはさすがに家の人の許可がいるだろうと思い、何度ドアチャイムを押してみても留守だったのである。
残念ながら上は遠巻きの写真。しかも携帯、画像保存サイズを間違えて小さいまま。これはいつか果たすその日までの宿題だったのかもしれない。

で、今日アタックしてみたら家人が表で園芸をしてらっしゃいました。早速了承を取るべく聞いてみる。
「あのう、すいません。このバス停の写真、撮らせていただけないでしょうか?」
「いいですけど、これそんな珍しいですかね?」
家人の方は、全くてらいのない表情でそう答えた。

写真を撮る間、このバス停が以前、「大坪尻」って名前だったのにいつの間にか「小坪尻」になった、という話をして頂いた。
撮影終了、丁重に礼を言い、幾重にもお礼をして現場を離れた。

日田バス、最近になってやっぱり標柱を作り変えているようだ。おそらくこのバス停も、もうじきそれに取って代わる予定だろう。それどころか、例の高速道路1000円の施策のおかげでこの一日2本の過疎路線自体が消えるかもしれない。日田バスのドル箱と想像していた高速バス路線のリストラが、先日発表になっているのだ。
いろんな意味合いで間に合った、という気分でいっぱいになる。
本当に家人の方、ありがとうございました。

日田バス,民家型


以前町田で書いたんだけれど、小学校の頃、中学受験学習塾の合宿でこの町の温泉にお世話になったことがある。
思えばそれが「軒下バス停」の原体験だった。

息抜きにといつも使っていた野球グラウンドまで、先生や旅館の方の引率でマイクロバスでよくみんなで移動。そのグラウンド側の乗降ポイントにしていたのが「湯坪」という軒下バス停。
一見して変だと気が付いた。当時住んでた福岡にあるバス停は、当然のごとく標柱を以ってバス停となす。それが、軒下にぶら下がった標識、時刻表は壁に張っただけって。嘘だろ?

帰りがけ、道中のバス停を凝視することにした。他にもそういうバス停があるかもしれない。
・・・すると、待合室の壁タイプのバス停、壁に貼っただけ、なんてのが連日、新発見という形で日を置いて出現。それはもうめくるめく日々だったなあ、うん。

・・・さて、そんな原体験から20年を経て去年、せりざわさん(※その日の写真は全て彼によるもの)と撮影に向かった。
残念ながら、当時の面影は減っていた。

(現在の「湯坪」。軒下バス停にしていた商店は廃業していた)

この「河原湯」は当時は軒下型だった。
この辺、温泉から出る蒸気がいっぱいで、金属製品の侵蝕も早いのだろう。そのせいか、他の地域のバス停と比べ物にならないくらいぼろぼろになっていた。けれど、再会するまで生き残っていてくれた。遠くの幼馴染に再会したような、そんな気分に浸った。