川崎町ふれあいバス,小屋型,鉄道跡

上山田線の跡地のバス停

De・愛というのは川崎町の農産物直売所。
旧産炭地もすっかり農村にシフトしている。

その駐車場のはずれに

ふれあいバスの駐機場みたいな一角があって、

そこにバス停が貼ってある。

この農産物物産展の土地は国鉄上山田線真崎駅の跡地で、その土地を活用している。
このバス停の敷地がホームのあった辺りで、駅舎はおおむね今物産店がある位置にあったという。

モニュメントや

駅名板も。
上山田線は開業当時は飯塚市と山田市を結んだ線路で、その上山田や田川の南からゆくゆくは瀬戸内海側の苅田港まで石炭を運ぶために豊前川崎まで延伸された区間がここ。開業は昭和30年代と国鉄のローカル線としてはかなり若い路線だった。

コンクリート製の駅舎に掲げてあった駅名板らしく、インダストリアル感あふれるフォントがいかにも昭和30年代。

バス待ちでホームにも登れる。
鉄道線が結んでいた真崎から熊ヶ畑への峠道は、しばらくの間西鉄バスが代替バスを走らせてはいたが早々に引き上げてしまった。

今はその西鉄バスも撤退し、その路線跡を含む山間までふれあいバスが走っている。

よく見るとこのベンチの一角も

ホームの遺構を切り崩した感。
実は現地に赴くまでこのバス停がそういうものとは知らず、物産店の一角の貼り紙型のバス停かなと思っていた。
最初は名前も「De・愛」だし、スーパーマーケットの一種かと想定してた。なかなかこんな大掛かりなバス停とは思っていなかったかな。

物産店は割と客多い。駐車場のはずれに位置する、賑わいとは一線を画したあたりです。

ストリートビューはこちら

大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ,鉄道跡

草むしたホーム跡のバス停

ずいぶん前に一度行った小屋型のバス停。


ここは豊州鉄道(晩年は大分交通)の線路跡を国道にしていて、ここは駅あとの敷地が道路そばの空き地と化している。
小屋はもともとホームにあったものなのか気にはなる。


他のバス停小屋と比べると少し大ぶりで堅牢には見える。

が、駅っぽい特徴とかは見当たらず、現地見た限りではわからないかな。


計画では日豊本線の宇佐駅から山を越え、豊後森までつなぐつもりであったらしい。
廃止になったのは昭和28年。
経営は大変苦しく、廃止直前には一日1往復の客貨混合列車を残して全部代行バスを走らせていた。
この三又川のちょっと下流でこの鉄道は並走する駅館川を渡るのだが、台風でその橋が倒壊してしまった。

バス停の由来「三又川」


この三又川、橋のマニアにはちょっとだけ有名な場所で

この宇佐付近には「沈下橋」という形式の橋梁が多く残っている。
沈み橋とも流れ橋ともいう。正式名称は「潜水橋」らしい。

「三又川」の地名は、川が三又になるところが由来。
この橋はその三又になるところにかかっているので…

なんと橋も三又に。

行った際は農作業の軽トラが行き来してました。さすがに分岐を車が通った形跡はない。鋭角過ぎて曲がれるわけがない。
前軽自動車で訪れた時は渡れたけど、今の車だと厳しいかなあ…。
この分岐の先には上流まで大回りしないと行けない対岸の集落があって、駅があった頃にはショートカットに使ってたんじゃないでしょうか。

ストリートビューはこちら

大分交通・国東観光,ポール型,終点,鉄道跡

以前、まあここなら外さないだろうと勇んで国東半島に行ったことがありまして、そりゃもうワクワクして軽を走らせたのですがものの見事にごらんのごとく
 「立っている」(※このブログ独自の表現)
 案件ばかりで肩透かしにあいました。どの支線も結構最近に施設を刷新した感じもして、ああー、こりゃねえな、ということで国東半島の北半分で調査は終わらせて帰ったことがあります。

しかし国東半島というのは実に寺社やら石仏の多い場所でありまして、表題に出している路線の終点「文殊線」、まさに極めつけの「成仏線」など、珍名系のバス停が大変多い。
以前にも一度紹介した「下成仏」。これは地獄の門へのバス停!?

終点は「上成仏」。
天国は意外と、普通の集落でした。

ほかに本当に夫婦岩の下に置かれた「夫婦岩」とか

由来が気になる「豆腐坂」。

国東観光のバス車庫は、大分交通国東線の終点国東駅の跡を使っており、バス路線はその名残で国道を通らず海岸線側港町の細道を使うローカル線が多々あります。
これは「小原」バス停のところで見つけたもの。バス停は別に立ってました。
中に朽ち果てたベンチがあり、待合室の跡っぽい雰囲気だけはする何か。

この建物はなんだろう・・・?
最初、バス停のあとと思って近寄ったのですが、ひょっとすると鉄道のほうの遺構なのかもしれない…。

長浜。めっちゃ海に近すぎる。

大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ,鉄道跡

 鉄道線跡のバス停。
駅跡がそのままバス停になっている。
豊州鉄道といい、大分県宇佐市の豊前善光寺駅から院内町を経由し、豊後森までを目指していたようだ。
線路跡の殆どは県道になっている。そしてその県道は、鉄道の伸びることはなかったその先の険しい山岳地帯を、やすやすと快適に越えられるようになっている。開通したのは昨今のようだ。

この駅のちょっと下流の鉄橋が流されて、廃止になったという。

待合所は駅のそのままを使っているし、バス停の敷地はホームのそれ。だから、道路と待合室の間に妙な余裕がある。道路側に立ってみると、汽車がやってきそうな気・・・は、しない。交通量、多いっちゅうねん。
当たり前の話、廃止からもう40年以上経っている訳だから待合所の外壁はぼろぼろ。しかし、本当に思う。大事に使っているなあ。

この沿線、駅跡のこういうバス停が他にも何個かあったのだが、夕暮れが押し迫ってこれしか撮影できず。
豊前二日市駅跡は風情があった。
集落を見下ろすの高台の上のおらが駅、が想像できてしんみり。