西鉄バス福岡市内線46番の歴史と考察(3)
見よ!博多駅移転直前の詳細都市地図であります。発行は同潤社とありまして、不動産を扱う会社として現存しているようです。
裏側にはなんとバスの路線図!この▽線が竹下線にあたるようですね!
駅~五十川~松ノ木行。番号は振られてないようです。
62番にあたる耶馬渓線の「珍」が少し気になります。
要は博多駅から那珂川の右岸地域の集落を攻めていく路線として計画されていたということが一目でわかります。
この地図を元にして作成した路線図がこんな感じです。
駅前通を管弦町(現在のキャナルシティ南端付近)から分岐、そして竹下三角から県道575線こと福岡中原山田線に沿って南下。
井尻口に出るまでは完璧な幹線路線です。
しかし、ここで先にまず県道31号線のほうが先に開通してしまいます。
「5号線」と呼ばれる路線ですね。自衛隊駐屯地、米軍基地などが作られたためにいち早く整備されたわけです。
この地図では、昔の地図にありがちな話ですが郊外部分が千切れていて、
「例の接合部」
はどうなっていたか不明です。
博多駅から那珂川右岸を颯爽と走る幹線ルートになっていたことからか、この5号線にバスはもぐりこんでいきます。春日・牛頸支線の登場です。福岡市図書館にて、郷土資料コーナーに置かれていた観光案内によると3~5往復程度の支線だったようです。
この牛頸支線はかなり長い間残っていたようで、南ヶ丘団地・平野ハイツなどの開発とともに姿を消したようです。その名残として一時期、春日番号8番井尻~岡本~春日~春日ローンテニス~春日原駅という系統が存在していました。いわゆる路線免許維持という格好です。
本線の那珂川町方面はというと、この時点では山田が終点になっています。
かつてバス停の設置基準は特に狭隘路の多い農村部、山間部では厳しかったようです。山田には大きな神社があり、そこを折り返し点にしていたのは想像に難くはないです。
実はこの那珂川町方面、戦前に一度
「あまりに狭隘すぎる」
という理由で廃止になった経緯があります。これは「警弥郷史」という南区の郷土資料に記述があり、現在の警弥郷バス停付近に「背振神社」というバス停があったという記録が残ってます。
今も46番が入っていく折立の道、あれの南側をたどると、ずーっと戦前からおそらく道幅が変わらないまま裏道として残っています。そこを通って中原まで走っていたようです。廃止となれば納得は行きませんよね。一度手にしたトランスポーター、なんとか復活させたかったでしょう。当時はバスは運送屋としての使命も担っていました。だからこそ停留所に広さの確保が必要でもあったわけですが。この話は(5)くらいで膨らませることにしましょう。
井尻に迂回して、須玖を抜けて昇町に抜ける道に経路を変更。さらに「春日市史」辺りの記述から、後に西鉄に合流する参宮鉄道の路線に雑餉隈~春日・小倉・昇町~南畑(山田の先)があると発見。
辻褄が見事に合います。完璧です。
いくつかの資料には「小倉行きもあった」とあります。自作地図の「昇町」の南からバスは左に曲がりますが、小倉はその右方向の集落になります。その道路の延長線上にある現在のやよい号の「住吉神社」に折り返し場に最適そうな広場があり、なかなか興味深いです。
那珂川町右岸部分のメーンルートとして、ないしは春日方面からも博多駅へのメーンルートとして機能してたこの路線ですが、ライバルが現れてきます。
いや、自作地図の段階で気付いてると思うのですが
博多駅は移転しています。
この当時の竹下線の通ってた下人参町付近の裏道、実は実存しています。
「この道だけ店が古いぞ?」
って絶対気付きます。是非一回行って確かめに行ってみてください。
また線路の付け替えによって那珂川町から博多に行く道が距離的に左岸ルートのほうが楽になりました。古地図の路線表、よく見たら48にあたる路線、福岡市内(老司)で止まってるし!
「こくてつ通り」と、美野島陸橋の整備。そして竹下線は新しい線路と区画整理によって道路を寸断されてしまいます。古地図にある赤い線はその想定線ですね。
しかし逆の現象も起きます。区画整理と東領団地付近の経路付け替えによって珍奇な場所を通るぶん、あまり渋滞を知らず竹下まですいっと行けちゃう路線に変身。アサヒビールへの便宜のため道もめっちゃ広くなりました。
こうなればあとは県道575号線が整備されたら。
例のあの部分
ここさえ開通すれば!スマートな那珂川右岸ルートができてたんじゃね・・・とは、話は進みませんでした。
次回(4)、「新幹線基地、迷走、そして滅亡へ」の章へシーユー!
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