大分交通・大交北部バス,壁型,擁壁,道路構造物一体型


バス停写真を撮り始めて気がついたんだが、大分交通や日田バスのある時期以前の形のバス停標識は、標柱に取り付けられるのを想定していない造りになっている。
軒先や、待合所にくっつける用の金具というのがあって、それに取り付ける設計はなされているようだが、標柱に改めてくっつけるというのはどうも難しい・・・というか、めんどくさいっぽい。

舞野」のほかにも、他のサイトでこんな例もあったりするから多分そうだろう。ちなみにそちらのサイトに紹介されている場所は自分も行った。残念ながら、新たに付け替えられていた。(しかしバス停2つくらい見つけ切れなかったんだけど、大分交通は「標柱無し」がごくまれにあるのよね・・・)

・・・で、このバス停の場合。
その金具ごと、石垣に練りこんでいます。
道路に面してた宅地をかさ上げして、石垣擁壁を建てたっぽいのはわかるとして。
そこにあった待合室のものか。それか、通りに面してた家の軒下にあったものか。

なんだか、石垣から生えてるように見えます。

大分交通・大交北部バス,地面型,崩壊系

バス停探すのも大変。

・・・どこだ?

・・・ここか!!

ここなのか!!!

 実際ここまで来ると自分も手馴れたもので、「ああこんな集落あんだったらどっかにありそうだね」で車を降りるとそこにあったみたいな、そんなことばっかりです。
・・・たけのこ掘り名人みたい。

大分交通・大交北部バス,ガードレール,壁型


ガードレールにくくりつけられたバス停。

ここは崖・川・橋で待合所のスペースがない。川、よく見ると擁壁だね。改修でバス停スペースが削られてこうなったのかしら。攻撃斜面側だし。
しかも橋の分岐点にバス停を置いているパターンだから、どうにも移しようがないパターンですね。

ここの路線(樋桶山線)は物凄くて、バス停が石垣の上においてあるだけとかざらでなあ。終点の標識はどこにも見当たらず。ここのサイトで存命中の写真を見ることができました。感動。そんな現在の様子は芳名帖にて公開しております。

大分交通・大交北部バス,ポール型

 珍しく、単純に珍名なバス停。まあたまには。

うちの嫁の
「30過ぎても、心は乙女!!」
という力強い開き直りが聞こえてきそうなバス停だ。

世の常として、ここで出会った人に乙女は見当たりませんでした。
それにしても、この地名はどういう由来があるのだろう。神話・伝承の類からつけられたのではと推測してしまうのだけれど。

で、調べてみた。
この辺りは海に近い平地で、写真の森は早い話が神社の森。
神社の名前は乙咩神社(おとめじんじゃ)といい、その御由来。

 當社は今年より千二百九十年前人皇第四十三代元明天皇和銅三年現位置である古代の古墳上に宮柱を鎮め神籬を設けて仲哀天皇神功皇后應神天皇の御三柱の御神霊を奉祀したのが御創建と言ふことになつております。
又比売大神外御四柱の御神霊は其の後に合せまつられた神々であります
本社は乙比咩社乙咩八幡宮乙咩社などととなえられておりましたが明治四年乙咩神社と号することになりました。往昔この地は八幡大神の御神霊御霊幸の霊地 として宇佐八幡行幸会の大儀にはしばしば御巡幸あらせ給ひ又朝廷より奉幣使等の御参向もあつた程のまことに御由緒の深い神社であります。
尚宮下の南にある乙女水(誓水)は八幡大神御霊幸の際最もゆかりの深い御霊水と伝えられております。
(※こちらのサイト他に記述されておりました文章を抜粋)

乙女水。
今、心の中の男子中学生(1年)が物凄い顔をした子は、即刻このウインドウを閉じることを命ずる。

大分交通・大交北部バス,壁型,民家型


耶馬渓地区、現中津市エリアで、今のところ多分唯一発見できた壁バス停。
旧式看板まで完備、かなり貴重です。

道がおっそろしく狭いためか離合ポイントも作られていたりします。バス停の前の道路幅員がちょっと膨らんでいます。
この離合ポイントってのは、「バス路線の遺構」として残るもんでして・・・いつか、柳川の谷垣新開に写真を撮りに行くかのう。あの辺は非常にわかりやすい。

この路線(相ノ原線)はバス停の宝庫でした。素晴らしい。

大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ

 取り外し失敗?

ちょっと行ったところに、この道が沿う沢の向こう側への集落へ続く橋がかかっていて、ここはその道への分岐点。
バス停の名前はその向こう側の集落の名前です。

今はその向こう側のほうに改修済みの県道が延びていて、こっちは寂れた旧道。

 

大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ


大分県の中核市同士、中津と日田を結ぶ国道。その日田側から一番最初に控える峠道の旧道。
国道というやつは、世間のニーズに合わせて交通量もより大きなものを求められ、それに見合った道路が設計されて新しい道につけ変わっていくのが常。
山の峠道なんかになると、わざわざ橋をかけやすい上流まで昇っていくような細い道や、できるだけ勾配をなくそうと何度も九十九折で山を切り開くように伸び た道が。下流のほうにずどんと高架橋とトンネルをセットにした道につけ変わったりする。それは先人の努力が無駄になったのではなくって、われわれの技術の 進歩をむしろたたえるべきではある。

できるだけ自然のあるがままに沿ってできたような道のことが多い旧道と、そうやっていかにも人が自然を征服したかのような工法の新道にはたいて い、互いに行き来できるようになってないことが多い。知り合いにそういう新道の、特に高速道路の施設点検をする業者さんの話を聞いたことがあるが、まず駐 車位置とアプローチに苦労するのだそうだ。

それゆえバスは、日に一往復だけ、旧道の集落のおそらく学校の生徒のためにこの寂れた道を通っている。この待合室の前をかつては、峠越えのバスが日に何便も通り過ぎたのだろう。そしてその都度、幾ばかりかの人でにぎわったのかもしれない。
旧道は大変な狭い道で離合もままならなかったが、向こうから来る車は皆無だった。峠越えの道としての使命は終わり、静かな集落を結ぶ里道として伸びるこの 道。しかし並ぶバス停は、立派な待合室を携えていて、かつてのこの道が持っていた使命を忘れまいとしているようにも見えた。

旧道部分を過ぎ、新道に戻ると。新道沿いには土産物屋、ほ場整備が済んでその辺りに移り住んだ人。道が、人の住む場所を変えていく。いずれこの道もどこかにつけ変わって、旧道になるんだろうかね。