金剛自動車,古バス停,終点

多分日本で一番強そうなバス事業者名、金剛自動車

大阪の南のほう、富田林市、千早赤阪村あたりに「金剛自動車」あるいは「金剛バス」というバスが走ってるのは知ってた。
明らかに強そうな名前である。ここに勝てるのは鳥取県の「日の丸自動車」辺りではないだろうか?埼玉県の「イーグルバス」もなかなか強そうだ。しかし金剛には勝てるだろうか。

北ノさんから送られてきた南大阪の死角…

まさに生首状態…!!

金剛バス、路線範囲はそんなに大きくはないのです。富田林市、河南町、千早赤阪村が主体の小さなバス会社。
一応エリア内でバス停を調べて回ったが、おそらくリノベーションがあったのか

金剛バスのバス停(スタンダードエディション)。
四角いプレートに角柱、小さい時刻表。
「聖徳太子御陵」なんて味のあるバス停もこのスタイルであった。

古い丸型バス停板はおそらく旧式なんだろうけど、よく生き残ったもんですな…。
バス待ちの場所を変えたとか、そういう経緯で偶発的に残ったものなのか。一応他の終点いくつか見たけど見つけきれんかったとです。
区画整理にも宅地造成にも道路拡幅にも、微妙に逸れた市街地調整区域然の集落の中心といった風情。生き残る条件としてはバッチリです。

地元のバス停好き(※実数的にはどれだけいるのかは不明)もここはマストなんだろうな…
「金剛の旧式はここにしかないんだぜ!!」「いや俺は知ってるぜ!!〇〇にある!!」とかあるんだろう…。

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堀川バス,古バス停,民家型,軒下吊り下げ

撮ったつもりが撮ってない場所は結構ある

福岡県南部の堀川バス。
「道路地図に書いてある終点バス停に行ってみたい」というとっかかりからバス停探訪を始める人にとっては、これが格好の被写体といえよう。
まあ単純に自分がそうなだけなんだけど。


板屋。

的別当。

小椎尾。
三つとも廃止になってしまったな…。
今残ってる堀川バスの山間部路線、正直どれもオススメとしか言いようがない。
矢部川の渓谷を横目に、美しい茶畑を縫うように走るバスの車窓は最高で、羽犬塚~柴庵なんて今時1時間半と、胸やけがするくらいの所要時間もある。

ここの十籠車庫なんかも軒にぶら下がってて面白いけど昔写真撮りまくってたしどっかHDDにあるよね…

いや、待てよ?撮ってなくね?
てなわけで

行ってきました。

十籠車庫は何度でも立ち上がる


バス停部分は車庫の一角に。

十籠車庫はデカイ。いかにも昔のバス車庫といった風情である。

道路反対側。商店が並ぶ中。
このあたりは川にすぐ山が迫る地形で、平野は本当に数少ない。
そこまでしてこんな山奥に…と考える人もいるだろう。かつての人は「南側斜面」が欲しかったのでは?と思う。
十籠の周辺はそんな南向きの斜面に集落が並んでいるし、そういえば廃止になった的別当(椋谷)経由の路線もそういう集落ばかりを結んでた。

堀川バスの軒下バス停。

窓口跡。大昔は西鉄も来てたらしい…。

大分のバス停でもおなじみの軒下バス停用金具。

旧星野村、ここ20年での水害被災はかなりのもの。
ここまでの国道が陥没したり、川にえぐられたりと何度も運休や迂回運行の憂き目にあっている。
7月の熊本や大分を襲った大水害、この土地でも結構な量が降ったらしく、ここの下流域で斜面復旧工事に数か所遭遇した。

それでもこの本数維持されている堀川バス。
割と凄い経営努力だと思っている。

今気づいたことを言っていいかな?
堀川バスのマークって、カタカナの「ホ」なのか…!!

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日田バス,発見難易度高,ポール型,古バス停,壁型,崩壊系,民家型,終点

2020年4月廃止の出野線バス停写真の御蔵だし


星払(終点)

出野

北川
出野線で最初に撮ったのはわずかこの3枚だけ!!
日田バスのバス停、こんなに大掛かりな趣味になるとは人生わからんもんやね!!

星払バス停の思い出


星払、最晩年。


1枚目の写真ののちすぐに標柱が建て替わるので、あまり写真を撮っていない。
この末端の出野~田代橋~星払近辺は壮絶な狭隘路で、狭隘バスマニアの心をわしづかみにして離さない路線であった。

山を越えた先は「星野村」。そういえば佐賀の終着バス停にも「星領」があったし、山の頂上付近の集落には結構星の付く名前が多いのかもしれない。星の付く地名は隕石伝説という考察もあるらしいが、これ以上の深掘りは本職の民俗学の方々にお任せ…。佐賀の星賀は港だし…。


次の田代橋バス停。
普通のバスが入ってくると思えない狭さが続く。

日田バスのボロイ方の標柱。これが立っていると普通のバス停じゃんと落胆したものだったが、ひょっとしたらこの形で立ってるのも現在では少なくなっているんじゃなかろうか。

出た、往復できない1往復運行。最晩年。
田代橋は大正15年建造のアーチ橋。バス停前から分かれる村道にかかっており、石橋マニアにはそこそこ有名なんだとか。

北川バス停の思い出


この出野線、出野を出た後数少ない民家のある集落に時折バス停が…というくらいの森の中の人口希薄地を下っていきます。
途中の森の中に、分かれ道だけがあるタイプのバス停があります。

バス通り沿いには民家はなく、分かれ道の奥に民家があるタイプのバス停はよくあるんですが、この分かれ道のその先のなさそうっぷりはどうよ!

一応廃止直前だし(?)今年も写真に…

おお!柱が変わっちょるね!!

…。

岩が…。


北川集落はこの山道を相当登ったところにあったらしい。
現在グーグルの写真地図では家も何もなく、一応国土地理院の航空写真サービスを調べておそらく平成頭まで集落があったんじゃないの?くらいの知見を得た。昭和50年くらいのものには何軒か家が確認できる。

他出野線のバス停


首なしだった柚の木バス停。

グーグルマップで見るとさらに趣深い。

更に降りた「仏石」。

ちゃんと普通のバス停だって撮ってるよ…

この川は大丈夫だっただろうか。

画像庫に入った白焼け写真。
バス停小屋は藁置場…

伝里バス停でした。やっぱり藁置場!

もうちょっと下流の、下一ツ戸~出山周辺の思い出は次回!!

日田バス,古バス停

おそらくこのアナウンサーの手の部分にのびてる縦方向の道のどこかが「竹尾橋」になるのでしょう。


災害ニュースを見てたくさんのバス停写真群を眺めました。小野地区のバス停は小鹿田線、この路線は通学用路線として比較的本数が残っていて、また下流も人口の多い住宅地を比較的長めに通るので「普通のバス停」が多かったんです。なので通った記憶はあれど、あんまり写真に撮れてない。 そんな「普通のバス停」なのに風景に心を奪われて撮った写真。

小さな床屋さんの向かいに立っていました。

木の下にぽつんと立つバス停。

ツイッターでこの写真を上げたら、地元の住人の方が二人ほど「ありがとうございます」と感謝のレスをくださいました。写真を撮ったのは9年前。実はこの道路、拡幅されて今は2車線の道路になってます。

「十何年前毎日通った景色です」という地元の方の返信は、慙愧に堪えないものがありました。かけがえないものを喪う痛み。それも理不尽に。心中悼み入り極まりない。あえて「悼み」と書くのは犠牲者が出たからもありますし、ここを一緒に車で走り抜けた、助手席にいた亡き嫁のことを想い出してのことであります。

去年「今村」に行っているので当然ここは通りました。道が新しくなってるなあ、おしゃれなパン屋さんなんかできてて相変わらずドライブスポットやなあと。そこが、あんなことになるなんて…。
たくさんの住民様方のご無事と、一刻も早い復旧を願っております。

西鉄バス・福岡市内,ポール型,古バス停,終点

世の中には
「バス停はあれど、時刻表は必要ないバス停」
というものが存在します。いうなれば終点の標柱ですね。そういうのは結構どこにも立ってます。
しかしここは色々事情が特殊。

場所は南区の井尻六つ角。
県道31号線、主要地方道2本が本当に六つ角状に交差し、朝夕は激しい渋滞をもたらす魔の空間。この交差点の一角にバスの折り返し場が存在します。
 
首なしのバス停が立ってるのだけど、ここは実は独立した立派なバス停「井尻交叉点」。
朝に1便だけ雑餉隈営業所からバスがやってきます。
この折り返し場を拠点にする46番系統のために。
そのバスの始発地はここではなく、ちょっと離れた井尻バス停。その割には
  
ものすごく施設が充実してるのだけど、これは理由があってですね・・・。

大昔の話なのですが、県道31号線は昔そりゃもう凄い大幹線でした。1960年くらいの古地図でバス路線表見たら、県外に行く長距離路線なんかが通ってた。

福岡女学院という超名門女子学校が、そんな1960年にそんな場所からさらに山の上にある曰佐地区に移転してしまうわけです。きっとその当時、周りは何があったのだろう?田んぼがあれば上等、原野ではなかったか?と思うほど。
ハイソなこの学校、この今じゃ超一等地の角地に土地を借りて、その移転当時の大昔バスが頻繁にやってくるここから乗り換え地点として、西鉄によるスクールバスを運行させてたわけです。一時間に2~3本くらいは走ってた記憶があります。ちなみに今の六つ角が形成されるようになった井尻駅へのバス通りは開通しておらず、今の井尻商店街の中を入るバス系統が存在していたんだとか。あれ、おっそろしい狭隘路ですよ。

これは女学院付近が開発されて、人口が増えて自然にバス路線が他に増えるまで続きました。
書いている自分もその開発されて移り住んだ子孫です。実家暮らしの時
「井尻駅から弥永団地行きのバスがないとき、この交差点まで歩くと不思議と女学院まで行くバスに乗れる」
というライフハックが存在してました。覚えてます。

今はもう使われてない、人待ちスペースの廃墟。

バスの折り返し場として今は逆に福岡女学院の所持する、かつてスクールバス折り返し場だった空き地を西鉄が借りているという状況。
どういう折り合いをつけているのか、複雑な状況は部外者からは計り知れないのだけれど。

なーんとも不可思議な空間だけが広がっているのです。バス停は生きています、首はないけど。

追記

この後、この折り返し場は廃止。今はこの敷地は女学院の学生寮になり、時代に一区切りがつきました。

大分交通・大交北部バス,古バス停,民家型,終点

去年10月にひっそり大量廃止になっていた大分県耶馬渓付近のバス停たち。
そのうちの一つの終点。

中津市のバス路線は、平成の大合併が始まる前にコミバス化した場所とそうでないとそうでないところが別れました。
だから、旧山国町付近の支線、旧本耶馬溪町付近の支線なんかは、どんなバス停に出会えたのかなーと考えてしまいます。今回廃止になった路線群は旧耶馬溪町エリア。


ここは期待して行ったんだけど、残念ながら支線全体、標柱を作り変えたあとだった。

終点にこんなものが残っていたのと
 
途中のバス停。よく見たら軒下型の板を取り外した後の金具が残ってるのがわかるだろうか。

ちなみに新しいバス停は、背の低い可愛いらしい標柱だそうな。
コミバス化というのは全然悪いことではないのです。
偶々古いものが古いまま生き残ってて、ええ?全然気付かなかった、これそんな古いまま残ってたものだったの!?ってのが楽しい。

堀川バス,古バス停

知人から全但バスの写真が大量に届きました。あまりに凄いので更新速度をちょっと上げようと思っています。

思えばずーっとバス停写真を撮ってます。
当たり前ですが廃止された路線も沢山あります。
だいたい一貫してケータイで撮っています。

八女の堀川バスターミナルから出ていたと思います。それとも久留米かな?いや、広川の役場からだったかも。どっちだったかなあ、小椎尾線。

昔のケータイの画素なので、申し訳ない。でも当時は結構いい値したケータイだったんですよ。
貴重な路線表なんです。荒木を通って久留米に行く路線が載ってます。もう、運転手さん覚え切れるのかってくらい何度も狭隘な里道を曲がりくねるような壮絶な路線でした。

ちょっと上流に川の合流点があります。おそらく洪水が起きたらきっと鬼のように溢れることがある、というちょっとした警告でつけられたんじゃないかなあ。

隣が「神社前」なのに神社のそばという。

一応当時の終点小椎尾見たさにここに行ったのですが、このバス停が一番印象に残ってます。

ちょっと前に起きた八女の大水害の時、大丈夫だったのか心配です。
撮影したのは・・・多分8年前くらい?

JR九州バス,バスターミナル,古バス停,終点

「バス停は駅であった」という考察文を書いたら、これを取り上げざるを得まい。

巨大建造物です。駅です。
JR=国鉄バスの、本当に駅扱いであったバス停。
バスターミナルではあります。だけど、これは例えば駅前や中規模市の中心部に設置するようなものではなく、鉄道空白地の地域までバス路線が伸び、そこに駅を置いたという例。
「駅」はかつて「運輸」において必要なものでした。遠くに大きい荷物を送る宅配、あれ、宅配業が発達する前は「駅止め輸送」が中心であったようです。

大分県の山中もそうですが、中国地方の山中など、鉄道空白帯がある箇所には国鉄バスの駅が結構設置されています。長野には国鉄バスの貨物駅も存在したほど。

これは、その名残。

内装も立派な駅です。

この近くからは炭鉱が見つかりました。
貝島炭鉱。筑豊炭田最後に生き残った炭鉱。大規模な露天鉱でした。
今、その歴史を塗りつぶすようにメガソーラーの建設が進んでいます。

(この土地全部を埋め尽くす予定のようです)
後に国鉄、ここから1キロもないようなところまで鉄道線を延ばし、本物の鉄道駅を作ってしまいます。
それは後に「筑前宮田」のバス停として紹介しましょう。駅跡がある程度残っていてバス停になってます。

この街には「宮田町駅」と「筑前宮田駅」の二つの国鉄駅があったということになります。
しかし実際町並みを歩いてみると実際、この「宮田町駅」のほうに商店街が発達しています。

この乗用車というかタクシー、実はバス扱い。

ボットン便所も気合が入ってます。落書きだらけでした。

今はただの「バス停」です。
ここがこんなにも大きいのは、かつて「国鉄自動車駅」であっただけで…。

日田バス,古バス停,壁型,民家型


以前この五馬線「鼠谷」を紹介した後、割りとすぐに新しいバス停が立ったことがありました。

今回は出野線の「出山」。

2009年に撮ったものです。
下一ツ戸の住民の方に伺ったときに
「あそこは空き家にしとるけん適当にしてもらっとるとよね」
なんて教わったバス停。

一つ手前のこのバス停「深野」が、再来訪時にきれいな柱になって立ってました。
おそらく横の水路の補修のさいに潰したのでしょうか。
で、出山に行ってみると・・・

お!

立ってる・・・あれ、でも

残ってる!!

これ、ひょっとしたら「珍百景」効果なのか。
「下一ツ戸」から二つとなりのバス停です。

日田バス,古バス停


もう自分も日田バスは廻りつくしまして、『むう、このバス停の標識の形は初期!!』『軒先ないし待合室型の中期!!』などと勝手にカテゴライズをできるほどになりました。

じゃ、このバス停は?

「軒先・壁タイプ中期を無理に標柱にくっつけたもの」。
日田バス全体でも他に1個あった、非常に珍しいタイプ。

この路線、玖珠町から日出生を越えて宇佐に抜ける県道(三又川のその続きに当たる場所です)沿いのバス停。大幅な改修のおかげで、いくつかのバス停が新道に移転したり、廃止されたりしている。このバス停はその旧道の入り口付近に立っていた。

・・・今考えたら、その『バス停が元あった場所』を見に行くってのもいいんじゃない?
ってことも考えたのだけれど、実はその直前この新道のあまりのバス停の少なさに、何箇所か旧道に入り込んでみたのですよ。そしたら、壮絶なまでに自然回帰を起こしていて、とても車で入り込める雰囲気じゃない!!
特に『砥石谷』バス停(廃止)のあったという付近は完全な藪+資材置場に使われていて、探索しにいけば面白いのだろうけれど時間+装備なし。リサーチできませんでした。
柿木(移設)~石飛(移設)間は、かろうじて現在でも通行できます。おっそろしく暗いトンネルがあるでよ。

てな訳で奥の集落には行かなかった「老舞」。
近くに県道の橋があって、翁の面のレリーフに「老舞橋」と銘が打ってあります。