日田バス,軒下吊り下げ


軒先型のバス停は絶滅寸前なんだけれども、院内町の「月の俣」のように、取り外しがめんどいから放置してるような例もあった。

このバス停の路線はいつかはわからないけれど、大分前に廃止になっています。草の入江という集落まで伸びていたようで、終点のあった場所には待合所が別用途で使われ、そのまま残っていました。

おれ愛用の15年前の道路地図にはこの路線が載っていて、ひょっとしたら路線跡みたいなものがあるかも?と一縷の望みをかけてアタックしたのです。
・・・結果は大吉と出た。って言うか驚いた。

見事な軒先型です。
訪問時間、夕方の6~7時。
はい、期待してなかったんです。本当に驚いた。

 

堀川バス

bf45c733.JPG 今でこそ、福岡県内のバス会社は多種多様になった。
しかし昔は、本当に福岡県内では「西鉄」がほとんどの県内エリアを走り、細々と「昭和バス」「堀川バス」「国鉄バス」の3つがそれぞれ小さなエリアで路線網を広げていた。

太平洋戦争時、戦時統制というやつで、福岡県内の交通各社は合併をして西日本鉄道というひとつの会社になった。
関西でも一時期近鉄や南海が合併していたような時代の話である。
西鉄は戦後になっても分離はせず、良くも悪くもガリバー企業として発展を遂げたのだが、その枠からあぶれた堀川バスは、八女地方を中心にマイペースの運営をしていた。

この堀川バス、3系統だけ久留米の市内線を持っていた。
久留米は西鉄のエリアで、大通りのほとんどは西鉄に押さえられてしまっている。
1系統は広川町まで、大通りを西鉄と併走していて程なく負け。
もう1系統も廃止。鹿児島本線線路沿いを中心に狭隘路を縫うように走るトンデモ路線で、荒木駅のそばの踏切から見える狭隘路に、バス停がぽつんと置かれていたのを覚えている。

残り1本は現役の鑓水線。現在も割と本数もあり、需要があることが伺える。
この路線は日に4本だけ、その鑓水から先へ、本社のある八女と運行されている。
その鑓水から一個目のバス停がこれ。

この狭さなのにまたここ、交通量が多い。そしてバスもでかい。
しかし通は「おお、これぞ堀川バスだなあ」と納得してしまう。
堀川バスは本当に通好みなのだ。特に、狭隘路線マニアにとっては。
是非興味があったら訪れてほしい。「何でこんな道を選ぶ!!」が詰まっています。このちょっと先、道路の改良が進んでた気がするので、ひょっとしたらもうないかもしれないが・・・。

ecfe0bbf.JPG f8662acc.JPG

昭和バス

VFSH0023.JPG 昔、ジャイアント馬場が子供と一緒にバスを待つコマーシャルがあって、それが昭和バスのバス停だった。

それ、どこだったんだろうなあと思って探した時のもの。その途中でこんな場所を見つけました。

細い道の向こうからバスがやって来るって構図、そのまんま。あまりの見通しのよさに笑いが出てしまった。映画に使えそうだ。

去年行ったらちょっと下流のダムが完成間近になっていて新道ができていましたが、バス停はそのまんまでした。

Vfsh0025.jpg

昭和バス

28a8f626.JPG 福岡市の西のほうに、細々と存在する昭和バス。

昔は福岡市内に、この形のバス停がいくつも立っていたものでした。
西区の原往還辺りなんか、一日6本くらいしか走らないのにバス停はこんなで、西鉄より目立ってなかったかしら。

今ではバス停の形もシンプルになり、そもそも福岡市内に来ていた路線もほとんどなくなってしまいました。このバス停、残っているかなあ?撮影は2006年くらい。

6adfadff.JPG adeae834.JPG

佐賀市営バス

Vfsh0042.jpg 老いの口は、おとな。

「おとなぶん」と読むバス停。
佐賀市営バスは路線を追いかけるのが楽しい。

この近くに有名なラーメン屋があります。
ここに甥っ子を連れて行ったら、その日は甲子園「佐賀北高校VS帝京高校」の熱戦の日でなあ・・・。結局ラーメン屋にいる間は決着が付かず。ラジオを消して、負けてるだろうと思いながら帰路のガソリンスタンドに入ったらガソリンスタンドで熱狂中。うわあ、勝った!!

「打った子、近所ん子ですよ!!」店長おおはしゃぎ。ふとガソリンスタンドの向かいを見たら・・・佐賀北のグラウンドが見えました。

日田バス,壁型,小屋型


バス停を探していると、コンクリートブロックでできた構造物が道端に出現して、「あ、あれかな?待合室じゃね?」と色めき立つも、近寄るとごみ集積場だった、ってなことが多々あります。
中には、もうバスが一日1往復なんてのになってるのをいいことに、こうなってる場合もあります。

この写真撮ってるとき、地元の中学生くらいの女の子がこっちを見てたんだが、「ごみ集積場の写真なんか撮って何しとんじゃワレ」って気持ちになったかと思うのよね。こうなっちゃうとバス停って認識も薄そうだしなあ・・・。

西鉄バス・福岡市内,民家型

大分に写真撮りに行ったりするとき、たまに地域住民から「そんなにこんなバス停珍しいんですか?」と聞かれることがある。
「ええ!!珍しいですよ!!日本じゃほとんど絶滅寸前です!!」
とはきはき答えてたりするんですが、
「少なくとも福岡にはありません!!」
と一度答えたことがあります。

ごめん、あれ嘘だった。

このバス停、凄い狭いとこにあるんですよ。
昔は確か標柱が立ってたんだけど、西鉄バスのあれってほら、物凄くでっかいじゃない。
割と車通りも多くて、結構邪魔だったのよね。家もみっしり建ってたし。
10年位前だったと思うけど、バス停リニューアルしたときこうなったんだった。
あの時はずいぶん思い切ったことしたなあと思った。

いやー、西鉄のバス停部品で壁バス停作ると、本当になんか違和感あるね!!

立ってる標柱は、並走するコミュニティバスのもの。
昔はそこにも家が建っていたはず。
ちょっとリニューアルの時期がずれてたら、この壁バス停は生まれなかったのか・・・。

大分交通・大交北部バス,ポール型

 珍しく、単純に珍名なバス停。まあたまには。

うちの嫁の
「30過ぎても、心は乙女!!」
という力強い開き直りが聞こえてきそうなバス停だ。

世の常として、ここで出会った人に乙女は見当たりませんでした。
それにしても、この地名はどういう由来があるのだろう。神話・伝承の類からつけられたのではと推測してしまうのだけれど。

で、調べてみた。
この辺りは海に近い平地で、写真の森は早い話が神社の森。
神社の名前は乙咩神社(おとめじんじゃ)といい、その御由来。

 當社は今年より千二百九十年前人皇第四十三代元明天皇和銅三年現位置である古代の古墳上に宮柱を鎮め神籬を設けて仲哀天皇神功皇后應神天皇の御三柱の御神霊を奉祀したのが御創建と言ふことになつております。
又比売大神外御四柱の御神霊は其の後に合せまつられた神々であります
本社は乙比咩社乙咩八幡宮乙咩社などととなえられておりましたが明治四年乙咩神社と号することになりました。往昔この地は八幡大神の御神霊御霊幸の霊地 として宇佐八幡行幸会の大儀にはしばしば御巡幸あらせ給ひ又朝廷より奉幣使等の御参向もあつた程のまことに御由緒の深い神社であります。
尚宮下の南にある乙女水(誓水)は八幡大神御霊幸の際最もゆかりの深い御霊水と伝えられております。
(※こちらのサイト他に記述されておりました文章を抜粋)

乙女水。
今、心の中の男子中学生(1年)が物凄い顔をした子は、即刻このウインドウを閉じることを命ずる。

西鉄バス・筑豊

2f56455d.jpg 炭鉱住宅、略して炭住。

ところで自分は写真については本当に無知である。
しかも大昔、自称写真家の男にとんでもない目に遭わされた事があり(※詳しく話を書くと「賠償」だの「訴訟」だのという素敵に生臭い言葉が並ぶので、絶賛割愛)。またこの男がよく写真技術の薀蓄を語ってるのに辟易してたのね。
ゆえに写真技術の向上という部分は意図して勉強しようと思っていない、というか複雑な気分になる。

なもんで、時折物凄いものを撮ってるにもかかわらず、撮影技術的なもので台無しになっているものをこしらえてしまうのである。
この画像はそんな部類に入るものらしい。
ビバ逆光。
筑豊で育った年配の方が驚愕していた。まだ残っていたのかと。

最近同じ場所に行ったら、あの木造の炭鉱住宅群は素敵な新築の鉄筋の家並みになっていた。
恨むんならその自称写真家の男を恨もうか、いやだめだ。別にどうでもいいや。
VFSH0107-1.JPGVfsh0111-1.jpg


大分交通・玖珠観光,小屋型


いや、バス停というよりもね・・・。

この写真を撮ってくれた(しかも写真の腕は数段うまい)鉄道オタクの友人と撮影旅行中(2007年秋ごろ)、ちょこっと熊本県を通過。
バス停よっかこの駅の標識のほうに目が行った。っていうか、行くさ!!

宮原線、実は何度か見かけたことがある。
通っていた中学受験学習塾に合宿授業があって、この近くの温泉宿を使っていた。
たまにみんなで外に出て、泳ぎに行ったり野球をしに行く移動のバスの車窓から、宝泉寺駅や町田駅が見えたことがあった。
ちょうど町田駅から、何人もの人が階段を降りる様子を見た記憶がある。列車到着時だった。

・・・実は印象、あまり変わってない。この階段からたくさん人が下りてきたの見た。頂上には駅舎のようなものが見えた記憶がある。
ワクワクしながら、階段を登った。

うわあ!!!
駅、残ってる!!