日田バス,軒下吊り下げ


大分県で一番有名なバス停といえば、大分バスの「ととろ」でしょう。いずれは訪問したいバス停なんですが、あそこの生い立ちをネットで調べていると、気になる記述がありました。

ととろの路線開通当時には、バス停の開設に「バス停の待合所を作るのが必須条件」だったようで、「土地を出し合ってここに待合室を作った」という記述が。
もちろん道路交通法などの法律に基づいた義務ではなかったと思いますが、そういった理由でか、待合所のあるバス停が大分県には実に多い。

バス停の前におられた地元のギャル(※敬意を表し)たちに伺いましたところこの待合室も、開通時昭和35~6年ごろに建てられたのこと。
すっかり傾いてます。壊れる前に写真に納められてよかった。

日田バス,軒下吊り下げ

 軒先型バス停。
日田バスも、実はここ何年かで標柱に入れ替える作業をしているらしく。いくつかの写真に納めたバス停が標柱になったりしている。
いや、この軒先型バス停って見つけにくいのよ!!
今日出かけた先でも、標柱になって始めてバス停を発見。「あー、あの店の軒先、ぶら下がってたのか!!」と地団太を踏んだばっかし。

このバス停は見つけやすい部類ですが、後々わかりにくい凄いのが登場することでしょう。
谷というか高原を縫うようにして走る、細い県道沿いの小さな集落のバス停。

 

日田バス,民家型

バス停の写真のブログ、開設してみました。ネットでは変な大喜利風サイトをうっかり8年続かせてみたり、変なテキストサイトをやったり、ネットラジオしたりというわけのわからない遍歴があるのですが、こういう至極真っ当な、しかもテーマのあるブログは実は初めてだったりします。

これ以前の文章は、以前持っていたブログでたまに書いていたもの、mixiの日記で書いたりしたものをまとめたものです。
引越しやらで写真データが散逸して、残念ながらこちらへの収録を諦めたものもあります。ご容赦を。

一回目は、敬愛する日田バスのバス停「赤石小学校」。

忘れ去られたような山奥の村の真ん中に、忘れ去られたように足元に置かれた標識。

民家の茶色の壁に、時刻表が貼ってあります。日田バスはこういういわゆる壁バス停、あるいは軒下型のバス停が異様に残存していて、廻っていて全く飽きません。

日田市コミュニティバス,古バス停,小屋型


大分県、旧中津江村のバス停。

中津江村って調べてみると、大正~昭和~平成とおそらく、どこにもないくらいの触れ幅でものすごい変革を遂げて今に到る所で。近代史、そしてちょっと未 来を含んだ日本現代史の縮図なのかもしれない。鯛生金山→蜂の巣城事件→カメルーンチーム招聘。何気に第一次産業・第二次産業・第三次産業の全ての資源を 駆け足で消費し尽くさせられた村ともいえよう。

産業革命、農業から工業へのシフト、公害・環境問題、巨大公共事業、反政府運動、ハコモノ行政、国際的イベントへの参加とその経済効果、市町村大合併…。これら全部、経験した場所とは俄かに信じがたいくらい小さく、静かな村だった。
行ってみて思ったことは一言、「そして今は…。」

バス停は想像以上に素晴らしかった。

村営バス時代の時刻表。

大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ


大分県の中核市同士、中津と日田を結ぶ国道。その日田側から一番最初に控える峠道の旧道。
国道というやつは、世間のニーズに合わせて交通量もより大きなものを求められ、それに見合った道路が設計されて新しい道につけ変わっていくのが常。
山の峠道なんかになると、わざわざ橋をかけやすい上流まで昇っていくような細い道や、できるだけ勾配をなくそうと何度も九十九折で山を切り開くように伸び た道が。下流のほうにずどんと高架橋とトンネルをセットにした道につけ変わったりする。それは先人の努力が無駄になったのではなくって、われわれの技術の 進歩をむしろたたえるべきではある。

できるだけ自然のあるがままに沿ってできたような道のことが多い旧道と、そうやっていかにも人が自然を征服したかのような工法の新道にはたいて い、互いに行き来できるようになってないことが多い。知り合いにそういう新道の、特に高速道路の施設点検をする業者さんの話を聞いたことがあるが、まず駐 車位置とアプローチに苦労するのだそうだ。

それゆえバスは、日に一往復だけ、旧道の集落のおそらく学校の生徒のためにこの寂れた道を通っている。この待合室の前をかつては、峠越えのバスが日に何便も通り過ぎたのだろう。そしてその都度、幾ばかりかの人でにぎわったのかもしれない。
旧道は大変な狭い道で離合もままならなかったが、向こうから来る車は皆無だった。峠越えの道としての使命は終わり、静かな集落を結ぶ里道として伸びるこの 道。しかし並ぶバス停は、立派な待合室を携えていて、かつてのこの道が持っていた使命を忘れまいとしているようにも見えた。

旧道部分を過ぎ、新道に戻ると。新道沿いには土産物屋、ほ場整備が済んでその辺りに移り住んだ人。道が、人の住む場所を変えていく。いずれこの道もどこかにつけ変わって、旧道になるんだろうかね。

産交バス

P1000125_R.jpg かつて日本には国鉄というのがあってだな。国が鉄道を運営していて、いたるところに鉄道網を張り巡らせていた時代があった。そしてその鉄道網は、いわゆる過疎地のほうにまでも延び。あるいは時代が変わり、人の住まなくなったような場所に空気だけを運ぶ鉄道線が生まれ。

 大分の山奥から、熊本の方向を目指したまま盲腸線になっていた宮原線が廃止になったのは昭和59年12月1日。かなり早い時期の廃止だ。鉄道とい う重厚長大な施設を維持するコストと、そのコストを捻出するために見込まなくてはいけない乗客数には全く見合っていない、沿線の人口密度。いかに温泉地 で、観光地であったとはいえ、それは仕方が無かったことなのだろう。

 ちょうど先日、五馬線を 再訪して写真を撮り尽し、杖立のほうから小国を通って九重のほうに抜けようと思った通りがかった県道。不意に、その巨大な橋が現れた。周辺は谷沿いの農 村、草生した鉄橋の真下にあるバス停は、それに見合うようにこじんまりとしていて、その橋だけが異様に大きな存在感を醸し出していた。
P1000126_R.jpg

日田バス,軒下吊り下げ


鬱蒼とした森の中にたたずむ、傾いた待合室。

中にはほど近い駅の時刻表、かつてのこのバスの時刻表。爪で引っかいた「ふざけるな」の文字。その、鉄板に記されたとおりであれば8本運行されていたこの路線も今や朝昼夕の3本のみ。

離合とかいう言葉とはかけ離れたような山道を延々と行くこと1時間。高原の真ん中を縫うようにして走る道路沿いには、ちらほらと民家、 そして田畑。どこまで分け入っても人がいる。見えなくても、どこかに。森に差し掛かっていると三叉路の予告標識とともに「この先右は○○集落」、そしてそこにバス停。集落は森に遮られて、そこからはちっとも見えない。空は見上げないと見えない。だが、ここに人が来る証だけがそこにあって、孤独の不安がどこかに行くのだけがわかる。

そういえば、昔のその時刻表には「宇ノ木行き」という表記があるのだが、これは松原ダムの湖底の集落。
杖立に向かう国道のトンネルに名前が残っています。

世界が平和でありますように…

 ※そうそう、この文章書いたり写真撮った当時は平気だったんですが2009年夏現在、このバス停の待合室は床が完全に腐ってしまっています。もしこのブログを読んで探訪しようと思った方、絶対に中に入らないでください。(この文章を以って警告とし、一切責任を負いません)

西鉄バス・福岡市内


見そびれちゃったよ鉄腕DASH。なんか見た人の話によるとこのバス停から乗ったらしい。
次のバス停まで歩いたら、天神行きがあったのにね!

大昔住宅地図の調査のバイトしてたとき数回志賀島は半周しましたが、毎年冬場にしか行かなかったので自分の印象は「寒い」これだけです。

あ、このバス停の名前の由来はまんまです。金印が出たといわれる場所のすぐ下。
隣のバス停は「蒙古塚」で、塚つながりというなかれ。かたやお宝発見、かたや処刑場・・・!

西鉄バス・福岡市内


このバス停は凄く変です。場所としては国道を直角に曲がり、海沿いの集落へと向かう格好のT字路の入り口付近にあるはずなんですけどね、その T字路の辺りで国道が広い道路に付け変わっているのです。で、取り残された三日月湖のような支線の真ん中に、バス停が残っているんです。写真で見るとわか るかな、こんな感じ。

しかしねー、このバス停はそれだけじゃない。その三日月湖の間の空き地にはかつて腐りかかった待合室があったり、取り壊されたり、謎の施設が拡充 されたり・・・そして写真を撮りに行った辺りでは自分が視認するようになってからは2度目の荒廃期をお迎えになられておりました。周囲は一面の見通しのい い田園風景。ずーっと離れて、遠巻きにバスが律儀にこの細道に入っていくのを見てると、なんだかけなげで楽しい気分になるバス停です。

西鉄バス・筑豊

20051219.jpg 山の中に突然現れるバス停ってのは衝撃的で、付近に民家なんてちっとも見当たらない場合のバス停ってのはさらに最高だ。そういうバス停の常として、人が 乗らないからバス停として使われる節がない、さればどうなるかといえばもう荒れ放題になるというのが世の常ってもんでさあね。

 逆に山の中にあるバス停でも、きちんと手入れされているのもある。地形的に国道から離れたところに集落があって、利用客が多いんだなってバス停はきちんと掃除が行き届いている、きれいな待合室があったりするもんですね。

 で、このバス停。真正面には産業振興センター的な公共施設らしいでっかい謎施設(バス停表示板の赤文字はどうもそれの名前らしい)があり、横には 真新しい道路。でも、おそらくバス停には全く関係することはなかろう。何せ建物はその施設しかないし、おおよそこの施設を使う人々はその真新しい道路を 使って自家用車で来るだろう。カタカナ四文字のこのバス停名は九州地方でよく見られるカタカナ小字名。同じ様な小字名をどこかで見たことがあるが忘れた。 おそらく古語の一種じゃないかな。

 このバス停がそんな、地元の人もおそらく登記簿辺りでしかお目にかからなくなったような小字名になったのには訳がある。元の名前は「火薬工場」。 古い地図ではこの名前で表記されているのだ。火薬といえば、発破。そういわれてみれば田川のほうに廃止された路線にも「弾薬庫」というバス停があったらし い。そこで作られた火薬はおそらくそういった作業に使われていたのだろう。おそらく炭鉱の閉山によりだろう、工場を失い、バス停の名前を失い、存在意義を 失い…それでもどっこいバス停は生きている。草にうずもれながらもね。

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