日田バス,小屋型


日田バスのバス停には実によくある「晒し首」。
昔のタイプは待合所ないし軒下に掲げるしかない設計の金属板で、主をなくしたプレートはその辺に放置、ってなことが本当に非常に多い。

まれにいくつか、このプレートが行方不明のバス停も何個か見受けられる。
待合所に時刻表だけが貼ってある寂しいバス停があって、そこにどっかの不届き者が業務用の特殊な紙(A0サイズ)を数十枚投棄していた。必死に足で、その紙やらごみやらを掻き分けながら、バス停を探した俺。なんか、何やってんだ…って気分になった。

このバス停は幸せで、ちゃんと首は大事に保管されている。しかも、日田バス特有の「最近パソコンで作って、バス停の名前がちゃんとわかるようにしましたよラミネート」はバス停内に貼ってあり、プレートのほうは凄いことに旧来のものが使われてる模様。おお、貴重じゃないか。

しかし、近づいて・・・

あ、裏返してただけか・・・。

場所は別荘地も点在する集落のあたり。
この路線(本城線、1日1往復)は完全通学用だけに、バス停は手入れが行き届いていた。

大分交通・玖珠観光,小屋型,終点,軒下吊り下げ


えらく立派な建物の軒先に、ひょっこりと顔を出すバス停。
バス用の車庫が鎮座している。

例えば朝の第一便、山奥の学生たちや通勤者が朝一で町にバスで出かけるとして。その山奥からの始発便は、町の車庫から早朝から回送で、くたびれるような長い距離を走って始発地にたどり着いている・・・と思うとそうではなく。始発地にあらかじめバスを止めて、運転手もそこに宿泊して、朝の第一便を運行するのに備えている。
福岡市内にもいくつかその名残があって、金武という集落に比較的最近までそれが残っていたなあ。東区の大岳は今も残っているかもしれない。

豊後森駅(玖珠町)~守実温泉(旧山国町)を結ぶいまどき珍しい峠越えの路線。豊後森からの夕方最終便だけがこの梶原で止まって、夜を越します。以前別のこういう車庫で見かけたけれど、いまどきの運転手さんたちは自家用車でここまでやってきていて、バスを止めたらそれに乗ってお帰りになられておりました。

日田バス,軒下吊り下げ

日田は割と古い商店街が元気だ。この町にはそういえば何とかモールやら、何とかタウンやらが存在しない。
街中を走ると、「おい、昔ながらの軒先バス停、まだ残ってないかな?」って気分になる。
まあ実際そいつをリサーチするにはきっと、自転車が必要だろう。
自動車でのリサーチは危険だ。わき見運転は事故の元だ。
一度レンタサイクルでも借りてみようかな。あるかどうか知らないけれど。

・・・さて、街中にほど近いバス停で、今のところ唯一見つかった待合室タイプのバス停。
サッポロビール工場のちょっと下のほう。阿蘇・津江方面から日田の温泉街に向かう道の、大山川左岸を通る旧道沿いに、ちょっと目立つ形で鎮座しています。バスは、前津江ローカル線(赤石・大野線)のみがここを通る設定。

周辺人口、非常に多い。ゆえに車量も多い。
だがこのバス停に止まるバスは、一日3往復。まあ、実用性はないに等しいといえるだろう。
狭い裏通りを自家用車があくせくと通り過ぎる景色の中、時間が止まったようなこの待合室のたたずまいは、いつ来てもなんだかやるせない。

日田バス,軒下吊り下げ


日田バスの有田線は、公式サイトにも載っているにもかかわらず一応市の福祉バスに転換されている。
バス停のほとんども市の福祉バス用のそれに変わっている。

俺は日田バスのバス停としての「王手石」や「缶詰工場」が見たかったけれど、それはまあ仕方がない。
いや、この路線にそんな名前のバス停があるわけよ。
スッゲーそそる名前と思わね?
・・・無くなってしまったのだから男ならぐっと我慢だ。
一応行ったけど、真新しい標柱はやっぱ興ざめた。

さてそんなリストラクチャーをくぐりぬけて、早い話取り壊したり取り外したりが面倒なバス停が4~5個現存していたりする。とはいえちゃんと、真新しい標柱も一緒に設置してあるんだけれども。
終点・岩下の一歩手前のバス停。

美しい。
なんつうかこう、峠道の木陰で日傘を指す清楚なお嬢さんみたいな、そういう景色だった。
いや、幾つもこういうバス停には行ってるんだけどね。そんな感情になったのはこのバス停が初めてだった。

何でそんな感情になったのか、いまひとつ言葉にできないんだけれど。
桜の季節にもう一度訪れてみたい気がした。
あの木、桜だったら出来すぎだよな。確か違ったと思うけど。

日田バス,壁型,小屋型


バス停を探していると、コンクリートブロックでできた構造物が道端に出現して、「あ、あれかな?待合室じゃね?」と色めき立つも、近寄るとごみ集積場だった、ってなことが多々あります。
中には、もうバスが一日1往復なんてのになってるのをいいことに、こうなってる場合もあります。

この写真撮ってるとき、地元の中学生くらいの女の子がこっちを見てたんだが、「ごみ集積場の写真なんか撮って何しとんじゃワレ」って気持ちになったかと思うのよね。こうなっちゃうとバス停って認識も薄そうだしなあ・・・。

大分交通・玖珠観光,小屋型


いや、バス停というよりもね・・・。

この写真を撮ってくれた(しかも写真の腕は数段うまい)鉄道オタクの友人と撮影旅行中(2007年秋ごろ)、ちょこっと熊本県を通過。
バス停よっかこの駅の標識のほうに目が行った。っていうか、行くさ!!

宮原線、実は何度か見かけたことがある。
通っていた中学受験学習塾に合宿授業があって、この近くの温泉宿を使っていた。
たまにみんなで外に出て、泳ぎに行ったり野球をしに行く移動のバスの車窓から、宝泉寺駅や町田駅が見えたことがあった。
ちょうど町田駅から、何人もの人が階段を降りる様子を見た記憶がある。列車到着時だった。

・・・実は印象、あまり変わってない。この階段からたくさん人が下りてきたの見た。頂上には駅舎のようなものが見えた記憶がある。
ワクワクしながら、階段を登った。

うわあ!!!
駅、残ってる!!

大分交通・玖珠観光,小屋型,軒下吊り下げ


屋根付きバス停進化系。
ちゃんと、建替えられてるようなとこもあったりします。しかもここ、上下線ともに存在。手厚いなあ。

この辺のバス停にたまに現存してる駅名板のような大きな古い看板、建物や待合室の壁に貼ってある場合があります。
近くの商店の片隅にひっそりと置かれてる看板を発見。その向かいには更にさびしげな看板も・・・。

日田バス,軒下吊り下げ


大分県で一番有名なバス停といえば、大分バスの「ととろ」でしょう。いずれは訪問したいバス停なんですが、あそこの生い立ちをネットで調べていると、気になる記述がありました。

ととろの路線開通当時には、バス停の開設に「バス停の待合所を作るのが必須条件」だったようで、「土地を出し合ってここに待合室を作った」という記述が。
もちろん道路交通法などの法律に基づいた義務ではなかったと思いますが、そういった理由でか、待合所のあるバス停が大分県には実に多い。

バス停の前におられた地元のギャル(※敬意を表し)たちに伺いましたところこの待合室も、開通時昭和35~6年ごろに建てられたのこと。
すっかり傾いてます。壊れる前に写真に納められてよかった。

日田市コミュニティバス,古バス停,小屋型


大分県、旧中津江村のバス停。

中津江村って調べてみると、大正~昭和~平成とおそらく、どこにもないくらいの触れ幅でものすごい変革を遂げて今に到る所で。近代史、そしてちょっと未 来を含んだ日本現代史の縮図なのかもしれない。鯛生金山→蜂の巣城事件→カメルーンチーム招聘。何気に第一次産業・第二次産業・第三次産業の全ての資源を 駆け足で消費し尽くさせられた村ともいえよう。

産業革命、農業から工業へのシフト、公害・環境問題、巨大公共事業、反政府運動、ハコモノ行政、国際的イベントへの参加とその経済効果、市町村大合併…。これら全部、経験した場所とは俄かに信じがたいくらい小さく、静かな村だった。
行ってみて思ったことは一言、「そして今は…。」

バス停は想像以上に素晴らしかった。

村営バス時代の時刻表。

大分交通・大交北部バス,軒下吊り下げ


大分県の中核市同士、中津と日田を結ぶ国道。その日田側から一番最初に控える峠道の旧道。
国道というやつは、世間のニーズに合わせて交通量もより大きなものを求められ、それに見合った道路が設計されて新しい道につけ変わっていくのが常。
山の峠道なんかになると、わざわざ橋をかけやすい上流まで昇っていくような細い道や、できるだけ勾配をなくそうと何度も九十九折で山を切り開くように伸び た道が。下流のほうにずどんと高架橋とトンネルをセットにした道につけ変わったりする。それは先人の努力が無駄になったのではなくって、われわれの技術の 進歩をむしろたたえるべきではある。

できるだけ自然のあるがままに沿ってできたような道のことが多い旧道と、そうやっていかにも人が自然を征服したかのような工法の新道にはたいて い、互いに行き来できるようになってないことが多い。知り合いにそういう新道の、特に高速道路の施設点検をする業者さんの話を聞いたことがあるが、まず駐 車位置とアプローチに苦労するのだそうだ。

それゆえバスは、日に一往復だけ、旧道の集落のおそらく学校の生徒のためにこの寂れた道を通っている。この待合室の前をかつては、峠越えのバスが日に何便も通り過ぎたのだろう。そしてその都度、幾ばかりかの人でにぎわったのかもしれない。
旧道は大変な狭い道で離合もままならなかったが、向こうから来る車は皆無だった。峠越えの道としての使命は終わり、静かな集落を結ぶ里道として伸びるこの 道。しかし並ぶバス停は、立派な待合室を携えていて、かつてのこの道が持っていた使命を忘れまいとしているようにも見えた。

旧道部分を過ぎ、新道に戻ると。新道沿いには土産物屋、ほ場整備が済んでその辺りに移り住んだ人。道が、人の住む場所を変えていく。いずれこの道もどこかにつけ変わって、旧道になるんだろうかね。